現在の大石寺に「本堂」は存在しない。

何とも長ったらしい題名になってしまいましたが…、

実はこの一点が御宗門において御遺命破壊がなされたのか否かの一番客観的な判断基準になることを顕正会の皆さんはご理解されているでしょうか?

本堂とは本尊堂の意味であり、どこのお寺でも信仰の中心となる本尊をこの本堂にまつり、そこにおいて一切の仏事法要を為しておりますね。顕正会においても本部会館の参詣室が当にこれにあたります。

しかし大石寺自体には「本堂」にあたる建物は現時点では存在しません。

これはなにゆえかと申しますれば、広宣流布の暁に大石寺は正式に「本門寺」と名乗り、戒壇堂(事相における事の戒壇)を建立し、そこに戒壇の大御本尊様をご安置し、はじめてそこが大石寺の本堂となるからです。

したがいまして現在の日蓮正宗においては月々の御講(大聖人様、日興上人、日目上人の月命日の法要)をはじめ、種々の法要、ならびにお虫払いや御大会の御説法にいたるまで人本尊のお堂たる御影堂にて執り行われているわけです。

このスタイルは御影堂から御宝蔵に戒壇の大御本尊様が御遷座された第17世日精上人の時代から何ら変わることなく続いているものと思われます。当然のことながら正本堂の存在した時期においても…。

つまり、

1.大石寺を本門寺に改称した。

2.大石寺(本門寺)本堂に戒壇の大御本尊様をご安置した。

3.その本堂において一切の仏事を為している。

この三つは広宣流布の暁の姿であり、仮にこれを広宣流布以前にやってしまったら、それは

御遺命破壊!

と非難されても致し方ないことなのですね。

それでは正本堂の時代も含めて大石寺はこの3つの条件に当てはまった行為はしましたでしょうか?

してないですよね?

上古の時代においては本堂が大石寺内にも存在しましたが、本門寺と名乗ることもまたなかったわけで、これもまた上記の3つの条件を満たしているものではありません。

つまり、日興上人が大石寺を建立され現代に至るまで御遺命を破壊した事実は一切無いとこれをもって断定できるわけです。

「国立戒壇」という言葉の不使用は「化儀」の範疇です。「化儀」とは時代の必要性が生じたならば時の御法主上人猊下が変えるべきものであり、「国立戒壇」という言葉を使用しなくなったからといって即「御遺命破壊」とはならないのです。

大事なのは大聖人様の御意が生き続けているか否かなのです。

正本堂が建てられる以前も、正本堂が存在した時代も、そして正本堂が解体された現在に至るまで、大石寺おいてはあいも変わらず本堂でなすべき仏事を戒壇の大御本尊様の御前では執り行ってはいないのです。また「本堂」と名乗る建物も作らず、本門寺との改称も当然のことながらしておりません。そこに「広宣流布は未だ達成されていない!」というケジメをちゃんとつけている姿が存在するのですね。

その点を顕正会員さんはしっかりと認識するべきなのです。

このような点からも顕正会の主張する御遺命破壊は的外れな誹謗中傷であると断言するものでございます。

コメント

  1. 雲羽百三 より:

     こんばんは。

     そもそも顕正会員達は、広宣流布後のことについて想像が付いているのでしょうか?
     『国立戒壇』たる戒壇堂を建てるにしても、どのくらいの規模の物を建てれば良いのか?
     広宣流布後、その戒壇堂に押し寄せる人々の姿を想像したことはあるのか?

     私はあります。
     そして、
    「これは広宣流布後の日本の姿を映し出している光景であろう」
     というものを見られる場所があります。
     それは都内のある場所、そして年に2回。
     あの光景を見て思ったのは、少なくとも今ある大石寺の境内だけでは狭いということです。
     顕正会員達はそこまで想像して魔民部を結成しているのか?
     とても気になります。

    • トチロ~ より:

      そうなんですよね。

      今の大石寺の様子しか知らない私たちには想像すらできないですけど、学会が破門される以前は一日に何回も御開扉をしないと追っつかない状態だったとか…。

      たかが国民の1割程度でそれなんですから、国民一同が帰依した時はどうなるんでしょうか…。

      当然のことながら現在の奉安堂の規模では小さすぎるでしょうし、宿坊だってもっと多くしないとお話にならないと思います。

      もっともっと大きな視野で見ていかないといけないということなんでしょうね。