顕正会(妙信講)破門の根本原因

令和2年6月度総幹部会の動画を私も昨晩見ましたが…、浅井さんの話は9割方が過去の歴史の回顧録であり、今般の新型コロナウィルスもまた学会宗門の御遺命破壊が原因であると結論付けられていました…。

地震も御遺命破壊、疫病も御遺命破壊、世の中に何かしら悪いことが起きれば何でもかんでも御遺命破壊が原因だと言い続ける顕正会は「御遺命破壊宗」とでも名乗ればよろしいのではないかと感じてしまった次第です。

 

さてその肝心の「御遺命破壊」ですが、実際にそれはあったのか否かと云えば「御宗門に於いて御遺命破壊は一切ない」というのが私の一貫した結論です。

現役顕正会員さんの認識とは180度相違するものであるがゆえ疑問に感じる会員さんも多いかと思いますが、実は顕正会の歴史を振り返ってみる時、ある一点で見事に事実をすり替えて浅井昭衞氏は会員(妙信講員)を洗脳して自らを正当化し会員には御宗門への敵愾心を植え付け、多くの道連れを伴っての半世紀に及ぼうとする謗法行為を続けてきたのであります。

 

今回の総幹部会の講演もまたその洗脳が根底にあってこそなし得たものであり、今後顕正会の息の根を止めるためには改めてこの部分にスポットライトをあて、顕正会(妙信講)が首を斬られた本当の理由というものを今一度確認しておくべきではないかと思い筆をとった次第です。

以下は私(トチロ~)の過去の論文です。いうまでもなく私個人の見解であり、御宗門ならびに御住職様の公式な見解ではありませんので、それを前提にお読みくだされば幸いです。

妙信講の登山申請却下ならびに破門理由に関して

妙信講の歴史を検証していくとき常に一つの疑問が払拭しえませんでした。それは昭和48年の妙信講からの登山申請に対する御宗門が不許可とするその理由です。

 

たしかに昭和45年5月3日の「今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。」との日達上人のお言葉はあったにせよ、昭和47年9月28日の学会との話し合いが一旦の終結を見てからは妙信講は外部に向かって「国立戒壇」の主張を積極的に行った形跡は見当たりません。唯一内部に向かっての総会での発言や、それを活字にした「冨士」にて「国立戒壇」という言葉を使用しているにすぎません。ストイックに捉えれば当然違反であることは間違いないのですが、登山を拒否するまでの理由になり得るのかということが、どうしても腑に落ちなかったのです。

 

 

 

御宗門の登山申請却下理由

大日蓮昭和49年12月号(31ページ)の「元妙信講等処分の経過について」をみると

 

「ただ、浅井らは、国立戒壇の主張については機関誌等でくりかえし、一向に改める様子がみえませんでした。

 猊下も非常に苦々しく思っておられたところ、昭和四十八年五月頃に至り、たまたま、妙信講より指導教師をとおして、登山させてほしいとの申し入れがあったので、“国立戒壇を文書等で主張し、宗門の公式決定に背いている間は、おことわりする”旨の回答を指導教師を通じて行いました。

 その後、一年間を経過した昭和四十九年四月九日、再び文書をもって、登山させるよう申し入れがありましたが、これに対しても、猊下の御意思により、“国立戒壇を、公論であるかの如く文書等で主張する間は許さない”旨の解答を致しました。」 (大日蓮 昭和49年12月号 31~32ページ)

 

とありました。「国立戒壇」という言葉は「御遺命の戒壇」と言い換えれば問題は起きないわけです。実際に昭和47年10月22日の妙信講第15回総会においては壇上のスローガンには「御遺命の戒壇建立法華講精神」と書かれてありました。

 

それでは御遺命の戒壇の意義について意見の相違があったのかと言えば、昭和47年7月に御法主上人猊下が出された解釈文に対して浅井は大きな異議は唱えておらず、昭和47年9月末をもって「御遺命は守護された」としているわけです。

 

さればどこに「猊下も非常に苦々しく思っておられた」原因があったのでしょうか。

 

 

御遺命守護の戦いにおける隠蔽

ここにおいて昭和45年5月3日の第33回創価学会本部総会でのご講演を振り返ってみる時一つ気が付くことがあります。

 

浅井はこの御講演を「御遺命守護の戦い」に引用していますが冒頭と末文は省略しています。その部分はさして問題は無かろうと思いますが、抜粋した文章に一か所「……」として隠している部分があります。(御遺命守護の戦い 34㌻)

 

その部分は以下のお言葉になります。

 

「われわれは、ただ日蓮大聖人の仏法を広宣流布するにあるのであります。そして、大聖人の仏法を信じた人々は、本門戒壇の大御本尊を、わが総本山大石寺において拝し奉り、即座に即身成仏の本懐を遂げることが最も大切であります。その」

 

これは日蓮正宗信徒であれば誰しも当たり前のこととして捉えている成仏するために一番大切なことであり、日寛上人の「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇これ無しと雖も、すでに本門戒壇の御本尊存する上はその住処は即ち戒壇なり、その本尊に打ち向かい戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱うれば即ち本門の題目なり。志あらん人は登山して拝し給え」との御指南と同じ趣旨のものであると思います。

 

心静めてこの日達上人のお言葉を拝するとき、「国立戒壇という言葉の使用はもとより、御遺命の戒壇建立という法門を前面に押し出しての布教は現在の時世を見る時かえって誤解を招き布教の妨げとなり得るがゆえ、古来より伝わる登山の精神と戒壇の大御本尊を中心とした成仏得道を前面に押し出した布教へと変更する。」との意が込められているものと拝察いたしました。

 

これは日達上人の決定された化儀であり、日蓮正宗僧俗は微塵も異議を差し挟む余地のない領域であります。当然のことながら大聖人様の定められた化法に手を加えることは御法主上人においても認められないことでありましょうから、御遺命の戒壇建立という法門を改変したり、それを捨て去ったりしてしまえば御遺命の破壊として糾弾されても仕方のないことかもしれません。

 

しかしながら当時のお言葉を素直に拝読していくならば、日達上人は御遺命の戒壇の法門を否定したのではなく、今後どのように布教を進めていくかという観点で「御遺命の戒壇の法門を前面に押し出しての布教はしない。」と定められたのではないでしょうか。

 

つまり昭和45年5月3日のお言葉は「国立戒壇の語の不使用」と「御遺命の戒壇の法門を前面に押し出しての布教の禁止」の二つを時の御法主上人の権限として化儀として定められたものと私は思います。

 

化儀と化法に関しては以前に書いたものがありますので、顕正会の皆様はこちらもぜひお読みください。

 

顕正会の皆様が日蓮正宗関係者と接触した際に「化儀」という言葉を耳にされたことは多いかと思います。 特に最近は「不敬の御開扉」と...

 

 

信徒が踏み込んではいけない領域

 

それを前提にして当時の妙信講の行動を振り返ると、学会との争いが一旦収まった昭和47年10月22日の第15回総会にて浅井昭衞はいきなり国立戒壇の語を使用したのみならず、御遺命の戒壇を前面に押し出して講員を煽る講演をぶちあげました。その後も昭和48年2月号「冨士」の巻頭言では「だが、誤りだけは打ち消されたが、顕わさるべき御遺命の正義は未だ匿されたままである。不可解とは此の事である。自らの失あらわれるを恐れるか、真の懺悔とはこのようなものとは到底思えない。」としてあからさまに日達上人の定められた化儀に対して切り付けるような発言をしておりました。

 

これらの浅井昭衞の言動を注視していた日達上人の落胆はいかばかりであったろうかと思うと胸に熱いものがこみ上げてまいります。

 

信徒が決して踏み込んではいけない領域に浅井昭衞はズカズカと土足で踏み入れ、時の御法主上人に対して喧嘩を売ったわけです。

 

このような浅井昭衞の暴走があったればこそ、昭和48年5月の登山申請却下があったものと私は思います。

 

 

どうにも止まらない浅井の大暴走

その後浅井はこれ(昭和48年登山申請却下)に反論することも無く、すぐにこの月の総幹部会で「転換期六つの構想」と題して「本部会館の建設」「顕正新聞の復刊」等の準備を始めることを講員に伝え、1年で準備を整え昭和49年の4月に再度の登山申請をし、それを却下されたことを口実に大暴走へと踏み出しました。

 

振り返って考えてみれば、昭和48年の登山申請却下は浅井昭衞にとって「これは使える。」との思いを起こさしめるものであったと感じます。

 

自らの姿勢を改めぬまま再度申請しても同じ理由で却下されるのは目に見えてます。それを学会が圧力をかけているからだとその矛先を学会に向けてまた新たに学会との抗争を再燃させることが可能になるわけです。そこまでを視野に入れた「転換期六つの構想」であり、それを計画通りに起こしたというのが実態ではないかと思います。実際に顕正新聞の復刊というのは学会攻撃のツールとしてどうしても必要なものであったことでしょう。

 

 

浅井昭衞最大のすり替え

浅井昭衞の野望はあえなく破門という形で幕を閉じましたが、その後の彼の武勇伝ではこの登山申請却下の理由を「自らの化儀違反」ではなく「御宗門の化法破壊」という話に見事にすり替えました。

 

先ずは浅井の著書において確認してみます。

 

「ここに何ともわからぬことがおきてまいりました。妙信講は昨年より御登山を宗務院に願い出ておりました。ところが今回、宗務院より正式に「妙信講は国立戒壇を捨てよ。さもなければ登山はさせぬ。」と云ってまいりました。国立戒壇を捨てることを承知すればすぐに取り計らうのだそうであります。」(御遺命守護の戦い167ページ)

 

「御遷座の翌年五月、妙信講は久々の御登山を総本山に願い出た。ところが宗務院の早瀬総監から伝えられた返事は、思いもよらぬものであった。「登山をしたければ、国立戒壇を捨ててほしい。これは猊下の御意向である。」と。何ということか。国立戒壇の放棄と正本堂の誑惑とは表裏一体ではないか。国立戒壇の御遺命を守るために正本堂の誑惑を訂正せしめた妙信講に「国立戒壇を捨てよ」とは何ごとであろうか。登山の願い出からこの返事まで一年もかかっていた。この間、宗門と学会は鳩首教義を続けていたに違いない。」(折伏理論書 改訂版 255ページ)

 

 

「御遷座の翌年(昭和四十八年)五月、妙信講は久々の御登山を総本山に願い出た。ところが、宗務院の早瀬総監から伝えられた返事は、思いもよらぬものであった。「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない。これは猊下の御意向である。」と。国立戒壇の御遺命を守るために正本堂の誑惑を訂正せしめた妙信講に対し、「国立戒壇を捨てよ」とは何ごとか。これが池田の意向であることは明らかである。」(基礎教学書 408ページ)

 

著書によって宗務院からの返事の内容がバラバラであり一貫していないのもおかしな話ですが、「国立戒壇を捨てよ。」との表現は宗務院はしていません。昭和48年の一回目の申請では

 

“国立戒壇を文書等で主張し、宗門の公式決定に背いている間は、おことわりする”

 

であり、昭和49年の二回目の申請では

 

国立戒壇を、公論であるかの如く文書等で主張する間は許さない”

 

であります。

 

どちらも御遺命の戒壇の法門を否定することが登山許可の条件ではなく、猊下の定められた「国立戒壇の語の不使用」「御遺命の戒壇の法門を前面に押し出しての布教活動をしない」ということ、つまり猊下の定められた化儀に素直に従うということが登山許可の条件だったわけです。

 

この化儀に従わず自分勝手な布教活動をして多くの講員をそれに巻き込むのみならず、それらの大衆を扇動して同心の学会員を攻撃するという破和合僧の大謗法を犯して全く反省の欠片も無いがゆえに浅井親子を始め33名の幹部が除名処分という事態を招いてしまったわけです。

 

この事実を当時から現代に至るまでの半世紀にわたって浅井昭衞は隠し、すり替え、善良なる妙信講員ならびに顕正会員を洗脳してきたわけですね。破壊されてもいない御遺命を「破壊した!」「破壊した!」と皆さんに叫ばせ続け、本来は敬ってしかるべき御僧侶方や正法を持つ法華講員さん達を攻撃して、多くの会員さんの身に多くの罪業を積み重ねてしまっているわけです。

 

 

結論

このように実態は自らの化儀違反からスタートしているものを、浅井は御宗門が御遺命の戒壇の法門を捨てようとしたがゆえだと全く意味合いの違うものへとすり替えてしまったのです。

 

そしてこの浅井の洗脳は現在の現役顕正会員のみならず、現在は法華講員となった元顕正会員の脳裏にも深く刷り込まれており未だにその後遺症に悩んでいる方も多く見受けられます。

 

結論として、妙信講問題は戒壇論ではなく化儀化法の問題だけで十分解決のつく問題であると私は考えます。

 

ご質問お問い合わせはお気軽にこちらまで…。

コメント

  1. ポリ銀 より:

    トチロ~さん、お久しぶりです。
    お元気ですか?
    浅井さんは、当時、まだ、40歳前半くらいだったんでしょうかね。
    もう、今の私には若造に見えるようになってしまいました。
    もう少し慎重に行動していれば、法華講の重鎮としての浅井さんに出会えていたかもしれませんね。
    文・義・意と四悉檀への理解があれば、言語の意味が変遷していくことを、仏様が見通されていたことが理解できたのではないかと思います。
    権宗の人々が方便経に固執し、他門が釈迦仏ないしは文上法華経に固執する姿が、自分の姿と同じことに気づくことが出来たのではないかとも。。。
    広宣流布の時のことは、その時の猊下様がお決めになるんですよ。。。それが血脈相承なんだなと、素直に受け止めることが出来るようになった自分は、有り難いと思っています。

    • トチロ~ より:

      ポリ銀さんご無沙汰しております。

      確かに当時の昭衞さんはバカボンのパパと同い年くらいになりますね…。あと数年で波平さんの年齢になってしまう私から見ても当時の昭衞さんの行動は幼く映ります。

      今回の総幹部会で昭衞さんは御法主と貫首の違いの講釈を述べておりましたが、そもそも御法主上人の存在というものをどう捉えるかによってその後の行動が変わっていたのではないかと感じます。

      彼(昭衞さん)に於いては当時より現在に至るまで、日蓮正宗信徒として本来持ち合わせていなくてはならない僧宝に対する認識の大いなる欠如が存在し、それゆえにこのような行動をとってしまったものと私は解釈しています。

  2. 雲羽百三 より:

     記事を読ませて頂きました。

     このような状態でも、御宗門は妙信講員の個人的な添書登山は認めていたわけですよね?
     事情を知らない人は、「だったらどうして妙信講員は添書登山をしなかったのか?」なんて指摘する方もいると思います。
     実際それをした妙信講員はどれだけいたのか?
     或いは心中では添書登山でも御登山したかったのだが、それができない空気が蔓延していたのではないか?
     つまり、「浅井先生が戦っておられる中、1人だけ添書登山すると裏切り者扱いされる」「連合会事務所に添書登山を申し込みに行くと、妙信講員というだけで白い眼で見られる」というのがあったとか?

     この辺も斬り込んでみると、面白いかもしれません。

    • トチロ~ より:

      良いところに気づかれましたね。

      実はこの論法は菊水護国さんが昔からよく使われているものなんです。彼のことですから当時の妙縁寺の状況というものはしっかりと確認されたうえで仰られていると思いますので、個人での添書登山は十分可能だったのでしょうね。

      で、当時の妙信講内の雰囲気というものは、モモさんもお会いしたことある櫻川忠さんに昔聞いたことがあるのですが、浅井さんが講員さん達を外部の風に当てないよう温室栽培しているような状況だったそうです。

      ですから大多数の妙信講員さんは添書登山という方法があること自体を知らなかった可能性も高いかと思います。

      このあたりはまた櫻川さんにお会いする機会がありましたら聞いてみますね。