元妙信講 武田広島支部長脱講 私は正法に目覚めた!

妙信講が解散処分ならびに浅井昭衞親子をはじめとする33名の除名処分者を出して間もないころ、広島支部長だった方が一家で妙信講を脱講されました。その手記を紹介いたします。浅井昭衞氏の裏の顔や大幹部といわれる人たちの言動が赤裸々につづられています。この手記が書かれてから半世紀近い年月が経とうとしておりますが、現在の顕正会でもその体質はあまり変わっていないのではないでしょうか。特に一定以上の幹部職を経験された方であれば大いに頷かれる場面が多々あるかと思います。

また平会員であり浅井昭衞氏の表の顔しか知らない方々においても、あなた方の上長の理不尽な振る舞いの根源はここにあるのだということもまたこの手記で理解できるものかと思います。

長い文章ではありますが、是非とも最後までじっくりと読んでいただければと思います。

私は正法に目覚めた!

 

 

 

ついに元妙信講は崩壊を始めました。かって、昭和四十九年八月の臨時幹部大会において浅井昭衛が“両三年の斗い”を宣言して二年、仏罰厳然たる現証が自らの講中にくだったのであります。内部には不信と不満が充溝し、“もう浅井には我慢できない”という声が一斉に高まりつつあります。浅井はそれに対し、疑心暗鬼に陥り、内部の粛清を始め、小つぶの野心家達は自分の勢力を伸ばそうと暗躍をしています。こうした状況の中で、仏法を純粋に求める人は、正法に目覚め始めたのであります。

 

 武田さんの一家は、知る人ぞ知る広島支部長で“救国の歌”の作者であります。浅井昭衛の信頼の厚い幹部で、浅井は、広島支部が結成された時、“御遺命守護の決戦場”と言って大いに賞讃したものでした。その“決戦場”において、まず支部長が正法に目党めたのです。今回は、元幹部告白第一弾として武田さん一家の手記を掲載し、崩壊する元妙信講の赤裸々な実態を紹介します。

 

 

 

裏では猊下 . 松本日仁を罵倒

 

手記 広島支部長 武田満男

 

今度、私元妙信講広島支部支部長武田満男は妙信講を脱講し、これより日蓮正宗の信徒として堂々と富士の霊峰を仰ぎつつ信心させて頂くことになりました。そのことに就て、かっては同志と信じ、同じ師の下で活動した人々にすら悪口罵詈されている現状であります。むろん彼等の心情は当然私にも埋解できることであり、いささかも意に介する処ではありません。しかし、私が妙信講の大幹郎としてわずかな月日ではありますが、経験して来た唯一絶対の講中と称する組織の実体を知ってもらえれば、私の気持の一分なりとも皆様に御埋解していただけるものと思います。そしてそのことが日蓮正宗総本山に害をなして来た私の罪障消滅でもあるし、戒壇の大御本尊様に対し奉り、私としてせめても出米得る御奉公であると深く胸中に感じ、しいてこの『破邪新聞』紙上をおかりして掲載させていただく次第です。かってこの新聞紙上で私が話題になったことを思えば、読者諸氏には奇妙な事の様に想われるかも知れませんが、私は恥じることなくあえて公表させてもらいます。もし、私の云うことに一分の嘘でもあれば、日蓮正宗妙縁寺の機関紙を汚した罪として御本尊の御罰を蒙るものと覚悟し、一切の真実のみを書きます。

 

そもそも私が妙信講に縁しましたのは、度度『顕正新聞』にも発表致しましたが妙信講が学会攻撃の武器のーつであり鬼の首でも取った様に宣伝している例の正本堂神父問題であります。このことに対し私自身がもっと早く謙虚な心で宗門に接して指導を仰いでいたらこのような悪鬼乱入の講中に縁することなく信心を続けていけただろうと思い、今更返す返す悔やまれるものです。ともあれこの時は某処で学会とは異なった意見が掲載されている『顕正新聞』を見つけ、私の心の疑問が氷解できると妙信講本部へ電話をし、真実を確かめたい一心で態々東京まで出掛け常盤台にある妙信講本部の門戸をたたきました。その時、最初に緑したのが当時妙信講本部に勤められていた白石氏であります。私は彼の話し云云よりも、彼のもつ信心堅固実直な人柄に打たれたのです。

 

現在、白石氏は不遇と云うより幸いにも浅井の意に迎合しないため総括され、妙信講の第一線よりはずされ、講中一同には、病気療養と云う名目でしりぞけられています。その現実と照し合わせる時、私の白石氏を見る目は決っして狂ってはいなかったのだと今日でも確信しております。その実直誠実な白石氏の師匠だと云う先入感で浅井氏と会見致しました。その時、彼は初対面である私に向かって「骨は私が拾ってあげる」と断言致しました。その一見堂々たる押し出しと演技に私はコロリと参ってしまったのです。私は何の懸念も持たずに当時住んでおりました高松へと帰りました。四十九年の六月十二日のことでした。その当時はまだ解散処分されていず入講勤行はされていない時でした。それから一ヵ月たつかたたぬかの内でした。或る日突然妙信講本部より電詰があり「広報活動の為に高松に東京から向かった」とのことでした。

 

 翌朝早速電話があり、市内のオークラホテルに来いとのことでした。私は息子を連れて物珍らしさも手伝ってホテルへと駆けつけました。しかし、その広報車のスタイルには流石に驚きました。私にとっては初めての経験でした。車に乗って学会の高松文化会館へ向いスピー力ーでガァガァと騒ぎ始めました。それが一段落すると高松の寺院へと向いました。その時は、何故にこんなことをしなくてはならないのだろうと云う疑問で一杯でした。宗教活動とは云え恐ろしい感じがしました。しかし、そこで私は私なりに弁解させて戴けば、私の気持が妙信講に傾くーつのキッカケがあったのです。今思えば当然かも知れませんが、妙信講の青年達に囲まれた中年の学会の人がその暴力を恐れたのでしょう、私の目より見れば卑怯と思えた瞬間があった のです。

 

その日より急激に妙信講が正しいと思い始めたのです。その後は、ブレーキの壊れた自動車が坂道を下るの如くです。皆様も御存知のように広島に住居を変えると同時にトントン拍子に妙信講内部で幹部になり始めました。そのうちに妙信講の歌を作ってくれと迄も依頼がありました。そう云えば、あの歌の行方はどうなるのでしょうか。願わくば「救国の歌」は私にとっての痛恨の歌でありますから歌って頂きたくはありません。著作権は私にあるのだから今後、妙信講で歌うことを止めるよう要求します。思い起す度に御本尊様への申し訳なさで一杯であります。その頃は私も次第に洗脳され、妙信講が正しい講中とぱかり信じておりましたので何の疑間も抱きませんでした。ところがーつの事件によって彼等の実体をかい間見ることが出来たのです。

 

 

人権無視の非常識にあきれかえる 職場に乱入し暴力団まがいの嫌がらせ

 

 

それは昨年の十月末頃のことでした。たまたま私は妙信講本部に前日より泊り込んでおりました。本部会館に一晩でも詰めておれば増々生命力が充実してくるだろうと思ってのことでした。朝方、管理室の炬燵で休んでいますと、本部会館管理室長の本間さんが、「広報活勘に行くので武田さんも一諸に行きませんか」と誘われました。何の意味かわからずに喜んでついて行きました。メンバーは本間さん、村岡男子部長、丸山日本橋支部長、神野男子部幹事、それに私の五人でした。途中、浅井氏に電話連絡し指示を受け目的地に向いました。

 

その頃になってやっと法華講の山本青年部長の所へ行くのだと説明して、ついた所は埼玉県の土木事務所でした。私たちが事務所に入るや、神野氏がいきなりフラッシュをたき、しきりに山本氏の撮影を始め、他のメンバーは山本氏を取り囲み、あたりかまわず大声で口汚なく罵り始めました。場所は他人の勤め先、それも役所の中です。無人の野原ではありません。特に村岡氏の形相たるや修羅そのものです。

 

この事実を目撃したならば、正常な神経の持主は皆頭が混乱してくるでしょう。まるで私の住んでいる広島名物暴力団の「仁義なき戦い」です。山本氏の迷惑はいかばかりであったでしょうか。しまいには、止めに入った山本氏の上司にまで喰ってかかる始末です。完全な気狂いとしか思えません。私は自分の取っている行動が恐しくなりました。帰る途中浅井氏に電話連絡しておりました。今度は法華講の佐藤委員長の処へ向いました。その頃には、私は完全に興醒めしておりました。

 

その私を完全に打ちのめしたのが、本部会館に帰った私たちの報告を聞く浅井の熊度であります。ソファの上で足を組み、丸山日本橋支部長が山本氏をダマして社外へ連れだした報告などを聞くと、実に卑しい笑いを浮べ 「そうか、ひっかかったか」などと喜び、又電話で話した内容を聞き、「そうか、あの小僧そんなことを云ったか」などの言動・その態度はまるでやくざの親分かインチキ不動産屋のおやじみたいで、とても演壇で堂々と話す彼の姿からは想像出米ません

 

そこには、道念のかけらもなく人を苦しめては喜ぶいやしげな姿があるのみでした。そのうえ彼の指示は夜中に山本青年部長の自宅へ押しかけろとのことでした。御遺命守護と嫌がらせとをとり違えているではありませんか。村岡男子部長が山本氏に対し「お前にも妻や子供が居るだろう」と脅迫めいた言葉を云ってやったと、得意満面で浅井氏に報告すると、すかさず浅井氏は喜んで「それで行け!」と云うことです。誠に恐しい集団であります。妙信講では、すべての行動が浅井氏から直接に指示が出ていることは間違いありません。私はさすがに、その夜は同行出来ず、翌日、全生命力を失い自宅へと帰りました。帰宅して早速それらの出来事を妻に打ち明けました。妻もただ唖然とするばかりでした。そして二人で話し合った結論は、息子や娘に内緒にしよう。そしてそれが仏法の斗いなのだとお互いに心で思い込もうと云うことでした。

 

しかし私たち夫婦には何か釈然としない気持が深くきざみ込まれました。その後、十月に入って、浅井氏より直接私に電話がありました。彼は重々しく、「君に重大な任務を頼む、広島支区の最大の斗いである。妻や子にも話してはいけない。私が指名するメンバーのみを集めてくれ。詳しくはこの電話は盗聴されているかも知れないのであとで長岡に電話をさせる」とのことでした。直後に長岡氏より電話がかかって来て、総勢十数名のメンバー発表が有り、極秘の内に連絡徹底し十一月八日の夜までに全員集合とのことでした。

 

しかし集合して何をするかはまだ発表されませんでした。当日全メンバーは私の家へ集合し、長岡青年部長も来広し、その夜初めて広島で行なわれる九日の創価学会本部総会に諌暁に行くことが発表されました。そして 翌朝になって綿密な計画書と創価学会本部総会の行なわれる予定地広島体育館付近の地図が手わたされました。その手製の地図を一目見た時広島のメンバーは唖然としてしまいました。それは地元の人ですら知らないような綿密に一方通行や地の理までも調べあげたものでした。その地図よりみればすでに以前に誰かが現地調査をしたものに相違有りません。いつのまにか計画は着々と進められていたのです。

 

しかし長岡青年部長始め皆んなが集った前夜の会合は何んの疑問もなく、純粋に御奉公の喜びに燃える会合でした。「御遺命守護の決戦である」「明日多数の学会員の中へこの広島支区のメンパーのみ突入する」ということで仏法守護のために全員で討ち死にするかも知れないとの悲愴感がみなぎっていました。藤木豊君が詩ぎんを吟じ、末期の水にも似た酒を汲みかわし、いよいよ全員が決戦の時というお互いの覚悟が問わず語らずに暗黙の内に互いの胸中に脈々と通うものが有リました。

 

今考えると実に馬鹿げた事だと思います。その夜は自費で貸しブトンを借り、全員私の家に宿泊致しました。翌日、行動は聞始されました。実際には計画書に基ずいたものでなく現場で全て指示されました。仲間にすら真の行動はふせておかれたのです。そればかりか、広島支区のメンバーでやる筈でしたが、 私達の目の前に忽然と東京より多数の妙信講員が出現したのですから、これにはさすがに 私たちも拍子抜けしました。あとで聞いたらこの東京の人たちは、 何も云われずにバスにつみこまれ車中に於いてその発表がされたと云うから恐れ入ります。その日の活動は全て成功しました。広報車に依る波状攻撃が行なわれ、全員がシュプレヒコールを繰り返し、午后になるとあたかも学会員の風を装い隊伍を組んで裏道より行進しました。計画は図に当り警備の学会員の人は整列した私たちを仲間と思い込み「ゴクロウサンです」と迄も声をかけてくれました。

 

丁度池田総講頭が登壇する時間に、壇上の真裏よりその講演を妨害する巧みさでした。警官が逮捕に踏み切った時の逃げ道迄も指示されていました。学会青年部の人の赤いネクタイ青いネクタイのあわてふためく様を小気昧よく見守リ、学会音楽隊の必死の防禦も完全な妙信講の計画の前にはむなしいものと映りました。強いて失敗を挙ぐれば計画書の中に記載されている『管長、池田の車に呼びかける。』の部分だけでしょう。

 

今過去を振り返ってみる時、その行為に対し宗門、学会の方々に詑びても詑びきれるものではあリません。そして、その計画が全て終了した時、私及び広島のメンバーは全て英雄に祭り上げられていました。浅井氏に報告した時も「よくやった、よくやった」とほめられました。いつの間にか私はその中心者になっていたのです。しかし真実は中心者である私は一言の相談にもあずからず、前日にその指令を受けたロボットにしかすぎません。そのことを不満に思う余裕はその時の私にはありませんでした。

 

普段より学会には必ず情報がもれる。学会はスパイ行為及び卑劣な行為専門である。又、牙城会員は鬼畜の如き恐しい集団であると徹底して洗脳されていたのです。これは浅井氏自身よりも幾度となく、又、大幹部よりも何回も聞かされました。妙信講本部では盗聴器をさがすために専門家に依頼し機械で調べたが発見出来なかったそうです。そして云うには、最近CIAが開発した盗聴器は機械をつかっても発見することは不可能であり、CIAが使用している位だから学会もそれを使っているとのことでした。それにしては余りにもあっけなく計画は成功したものです。

 

そして私の家の電話にも必ず盗聴器がしかけてあると云うのです。私はその言葉を信じ、今考えると滑稽なことですが、何度も試し、家族は大事なことを話す時は必ず小声で話したものです。スパイ映画と現実の区別が交錯した社会に私はひたらされていたのです。信心斗争と007の世界とがいり乱れていたのです。

 

 

口とは裏腹な臆病な浅井昭衞

 

 

そして、同月の末、今度は妙信講の広島支区大会が開かれました。初めて広鳥のメンバーのために浅井氏が広島の地へ来てくれるのです。前日迄の指令で浅井氏の警護は広島のメンバーだけでやれとのことで、普段より牙城会の恐ろしさをたたき込まれていた私たちは緊張しました。身命を賭しても守らねばならないと心に誓い合いました。事あるごとに、浅井氏は東京で身命を狙われている。それにもめげず堂々と仏法守護の戦いを繰り広げている浅井氏に続こうと決意したのです。

 

この日のために自費で用意した私の広報車と、浅井氏をお乗せできるという喜びに満ちた高知の寺田さんの車の二台で浅井氏を迎へに空港へと向いました。そうしますと何んと東京の妙信講の車か空港にちゃんと待機しているではありませんか。浅井氏を広島のメンバーだけで守れとの指示と随分違います。思わず寺田氏と顔を見合わせたものです。更にガッカリしたのは車中に於ける浅井氏の態度です。長岡青年部長と私の間に腰をおろして私の自宅へと向う浅井氏は、空港より尾けて来た学会員の車を見つけ震え上ったのです。

 

顔面蒼白となり落ち着きをなくし、“あぶないから会場を変更しろ”とまでも云うのです。いつも身命を賭している崇高な指導者の姿ではありません。恐怖におびえたオロオロとした不様な姿でした。会場での浅井の演説も、うわずっていていつもの迫力がなくペラペラと空しいものに間こえました。支区総会が終り、私の家へと一旦引き上げてからもオドオドとし、時間になり空港へ向う車に乗り込みながらも不安がり、態々東京へと電話をかけさせて、羽田空港へと多勢の妙信講員を迎へにこさせろと云うのです。これが、同じ十一月に学会の総会を妨害した首謀者とはとても信じられませんでした。この日十一月三十日より、私の広報車は一切の活動を中止致しました。このような現実を見せつけられると今迄疑問に思っていたことがドッと私の胸中に涌きでてまいりました。

 

例えば、聖人展問題や神父問題での謗法与同の問題です。高知の寺田氏はかって日運正宗に反逆し離脱した日蓮実宗大乗寺に属していた人でありますが、この人に下した浅井氏の命令は大乗寺を妙信講に入講させ正義の妙信講の寺院にしろとのことでした。そして何度も手を組もうと云う話になり、浅井氏が高知で大乗寺の住職と会う寸前までいきましたが幸か不幸か実現しなかったのです。日蓮正宗に反逆し、御法主上人にたてついて一派を立てた日蓮実宗と手を組むのは謗法与同にはならないのでしょうか。今日でも高知ではその画策が着々と進行しております。この二面性こそ妙信講の真実の姿だと思います。一方では保田妙本寺を攻撃しておきながらおかしな話であります。その浅井氏の本質を見抜いたかどうか分かりませんが、高知の寺田氏も、浅井氏に信伏している訳ではなく「私は妙信講員ではない。心は別にある」と私と妻と長女の前でハッキリ断言しており、又、「妙信講は広宣流布できる団体ではない。しかし今は広宣流布に利用しなくてはならない。そして時がくれば、私は私の斗いをする」とまでもうそぶいております。又、寺田氏は破邪新聞に、自分の過去をあばかれることを極端におそれており、“私のしてきたことは武田さんの比ではない”と常々おびえていました。いったい「御遺命守護の決戦場」はどうなっているのでしょうか。大牟田の藤木豊氏は、常々四条金吾の再誕であると自称しています。そして彼が云うには、武田氏は太田乗明の、寺田氏は曽谷殿の再誕であるというのです。

 

又、大牟田の地には多勢の大聖人様緑放の人々の再誕が存在しているそうであります。以前、私は藤木氏より「貴方は題目を唱えている時、七百年前大聖人より『三大秘法抄』を頂いたことを思い出しませんか、私は七百年前に大聖人様に御書を頂いたことを全て思い出しています。貴方も御書を読みながら思い出して下さい。」と云われ、何度も御書を読みましたがサッパリ思い起こすことは出来ず、ついにあきらめました。彼は常々そのことを言っていました。今度、思いあまって御僧侶に指導を受けましたら「そんなことはないでしょう」とのことでしたので安心致しました。

 

しかしこの問題で真剣に悩んだのは事実であります。藤木氏が云うには東京の妙信講員は熱原の法華講衆とのことです。神四郎が浅井甚兵衞氏、弥五郎が昭衞氏、弥六郎が信衞氏の三熱士だそうであります。そして彼が云うには、その証拠に皆んな百姓の顔をしていると云うのです。そう云われればそんな気がしてなりませんでした。もう今度からはその問題で悩まなくてもいいと思えばそれだけでも救われる思いです。

 

又、何よりも私が妙信講を嫌いになった理由は裏と表、たて前と本音が余りにもハッキリと食い違うからです。演壇に於いて浅井氏 は「おいたわしや御法主上人猊下」等々と猊下を尊敬しておりますが、陰にまわれば大幹部等も猊下の尊き御名すら“日達が云々”と呼び捨てにし、悪口の数々を尽すことです。それならそうで大衆の前でもそういえば良いので、ことさら見せかけの尊敬の言葉を用る必要はないではありませんか、私は人間性に於いて疑問を抱きます。裏を知らされない間はその表の仮面、ポーズのみに惑わされていたのです。

 

浅井氏が本部会館で勤行する時は必ず羽織、袴で勤行致しますが、その姿のみに私自身とらわれて、いつの間にかカリスマ的存在を許容しておりました。もっとも不思議なことに、浅井氏は格好はものものしいが、わずかの間の勤行ですぐにしびれを切らし、足を引きずって引き上げるのです。私の体験ではいつも勤行をちゃんとしていたら、足がしびれるようなことはないと思うのですが、或日、どうしても不審に思ってこのことを長岡氏に聞きますと、長岡は撫然として制止しました。

 

何よりも驚いたことは、現在僧侶(厳密に云うと分かりませんが)の方でたった二人だけの妙信講の味方である松本日仁氏のことを妙信講の大幹部等もなかば公然と悪様に罵っ ていることです。松本日仁氏のことを表面ではうやうやしくたてまつっておきながら骨の無い、いい加減な信用の出来ない男であるということを平気で云う神経が理解出米ません。松本日仁氏はこれを知っていて浅井についているのかどうか気の毒でなりません。おそらく浅井氏にとって利用価値がなくなれば、すぐにも捨てられるに相違ありません。又、妙信講内部では松本氏を一切信用しないという大幹部が多くいます。とすれば何も態態、「御高令の御尊能師」などと表面上敬う必要はないではありませんか。私から見れば節操の無いのは松本氏より浅井氏らの方だと思うのですが。

 

このように、本音とたてまえの二枚舌を平気で使い分け自分の講員をだまし駆使することが果して純枠な仏法と言えるでしょうか。御書によれば本当に正しい信心をしているならば自から仏法を行ずる人格、姿勢に現われてくる筈であります。私は『破邪新聞』にも一度書かれましたが、世法的には様々な失敗を致しました。その点は素直に認め反省しなくてはならないと思っております。しかし誓って仏法を行ずるに当って不純な二枚舌や虚言を構えたことはありません。それを平気でする講中であるということを如実に見せてくれたのが長岡青年部長であります。前々より、同じ妙信講の幹部である本間氏からは、長岡氏の件につき指導を受けた時に「種々ありますから気をつけて下さいよ」と暗に策士であるから気をつけるようにと注意を受けておりましたが、今度、本間氏の言葉が真実であったことを知りました。彼は私に対し、いろいろと卑劣な悪口を捏造し、関係者にふれてあるきましたが、そのために“浅井氏がああ言った、こう言った”等と浅井氏の名を使いました。

 

このようなデッチあげにつかわれる浅井氏の安っぼさをまざまざと見せつけてくれまし た。先日、そのことで彼と対決すべく大牟田の地へと向いましたが私のミスよりその機会を失いました。大牟田の方達には多大の御迷惑をおかけし、又そのために長岡氏に嘘でかためる動機を与えたことは残念でどうしようもありません。しかし、長岡氏の嘘言だけはどんなことがあっても許す訳にはまいりません。私も名誉を守るためには、どんな手段でも必要とあればとるつもりです。

 

とにかく、学会のすることは何でも悪いときめつけ、学会出身者は絶対に信用しないその体質、又、宗門の御憎侶のことも陰にまわれば公然と悪口罵倒する独善的な彼等の体質はわずかな紙数では書いても書ききれないものがあります。ことに御僧侶に対する下卑た人身攻撃をし、互いに卑しい笑いをうかべて喜び合う姿は到底信心しているものの姿ではありません。それ等は追って発表させて頂させて頂きたいと思います。

 

彼らは私の動向を知るや早速脅迫の電活を度々寄こしましたが、そんな暴力で人を変えようなどとはとんでもないことであります。ともかく思いつくままに私の体験しましたことを書かせて頂きましたが、今、私の願うことは一日も早く浅井氏等の犠牲になっている方々に目を覚ましていただくことであります。いかに彼等が私のことを捏造し宣伝しても大聖人様の御眼は逃がれ得るものではありません。これより後、私達家族は、今迄の罪障消滅のために一生懸命信心に励む覚悟であります。

 

(破邪新聞 第17号 昭和51年7月10日 2~3ページ)