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昭和45年~昭和47年

昭和45年4月6日御虫払いの御説法において日達上人は、

「『三大秘法抄』の戒壇は御本仏のお言葉であるから、私は未来の大理想として信じ奉る」(趣意)として、広宣流布は未来のことであり正本堂は御遺命の戒壇とはいえないとの公式見解をお示しになりました。
これ以降は正本堂が御遺命の戒壇であるとの発言は御宗門の書籍からは完全に消え失せたのです。


すなわち、「正本堂を御遺命の戒壇とする」というのが顕正会の言うところの御遺命破壊ならば、昭和45年4月6日以前の御宗門はたしかにそのような批判を受けても仕方が無いかもしれませんが、昭和45年4月6日以降はそのような批判は微塵もあたらないというべきなのです。


その後時は比較的平穏に流れました。


昭和45年10月25日、昭和46年8月28日には妙信講も登山し御開扉を受けております。(その時の資料はこちらをご覧ください。「不敬の御開扉」を叫ぶ浅井さんは同じ口でこういった正論を述べていたのです。)


しかしながら御宗門の公式見解で正本堂は御遺命の戒壇ではないと示されたにもかかわらず、学会は未だに内部において正本堂は御遺命の戒壇である旨を示し続けました。


それに対して妙信講は「正本堂」に就き池田会長に糺し訴うを送り学会攻撃を激化させていったのです。


この信徒同士の争いを止めさせるべく御宗門は何度も教導されましたが妙信講側は一切聞く耳を持たず、それによって登山ならびに御開扉の停止がなされました。それを不服として更なる学会への攻撃を激化させ、最終的に破門へと繋がっていくのです。


顕正会の皆さんどうですか?昭和45年以降に「御遺命破壊」と呼べるような姿勢は御宗門にありますか?


御宗門に御遺命破壊が無いのならば、妙信講は御宗門の側に立って学会の誑惑を批判していればよかったのではないですか?


なんで単独でこのような暴挙に出る必要があったのでしょうか?


ハッキリ言って昭和45年以降の浅井さんは慢心によって自ら破門を招いたとしか言えないものなのです。


それを顕正会員の皆さんは心静かに考えてみてください。

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