国立戒壇論の誤りについて

顕正会員さんも名前だけは御存じの「国立戒壇論の誤りについて」を掲載いたします。

顕正会では「悪書Ⅰ」と称されますが、はたしてこの書の全文を読んだことのある顕正会員さんはどれだけいらっしゃるでしょうか?

おそらくほとんどの方が読んだことが無いかと思います。

この書を執筆された御隠尊日顕上人猊下はこの書に関して「当時の状況下において執筆したものであり今振り返ってみれば言いすぎやはみだしがある。」(趣意)とされてますが、その大部分は御遺命の戒壇に関する学会ならびに妙信講(顕正会)の誤った認識を訂正せしめる内容となっています。

ゆえに御遺命の戒壇とはなんぞやと勉強する者にとっては、現在においても貴重な資料となり得るものでございます。ここに全文を紹介いたしますので皆様の今後の糧として頂けたら本望です。

なお、上記のごとく一部には「そのまま受け取ると認識を誤る。」箇所もございますので、法華講員の方々に置かれては最終的には御住職様に確認していただいた上で論を構築していただけたらと思うものです。

一、序  論

末法の本仏宗祖日蓮大聖人の大仏法は、今日嫡々の付法に依って第六十六世日達上人まで継承せられ、金口の血脈は厳然として末代の世に清浄無染の法水を伝えている。また近年創価学会による不惜身命の折伏の功は、日本国中、津々浦々に及ぶのみならず、遥か太洋を越え、雪嶺を凌いで、世界各地に本因下種の大御本尊を流布せしめている。

かかる仏法興隆の事実は、もとより直達正観の仏法の勝妙と、正系血脈の伝持によるところではあるが、歴代創価学会会長の卓越した信心行学と指導の賜であり、また大御本尊の功徳を確信した信徒各位の、歓喜に燃えた信行折伏の熱誠の結果に外ならない。これこそ、新しき民衆仏法の黎明といわずして何であろうか。

そして、法華講総講頭池田大作先生の発願と、八百万信徒の一致団結の供養によって建設中の正本堂は、世界に冠たる平和祈願の大殿堂として、本年十月十二日に完成の運びとなっている。

かかる時に、日達上人には、本年四月二十八日、立宗七百二十年の佳日を選び、「後代の誠証となす」として、正本堂の意義につき、重大な訓論を発せられた。即ち「正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」との御指南である。

茲に、霊峰富士の麓に聳え立つ大宝塔の意義彰顕となる。日蓮正宗の僧俗は、この訓論に込められた猊下の御精神を体し、異体同心に広布の大道に邁進すべきである。

蓋し、日蓮大聖人の仏法は、本来世界的大宗教である。正本堂に御安置される本門戒壇の大御本尊は、末法万年、全人類の闇を照らし晴らす法体である。然しながら、法の尊貴は、その法を伝持、弘通する人によって、はじめて顕揚せられることも疑いない。故に、日蓮正宗は、妙法の光の到来を待つ全人類にとってその希望の存在でなくてはならないと信ずる。

しかして、ここでどうしても解決しておかなければならない問題がある。それは、国立戒壇の問題である。本宗内においても、一時期、本門の戒壇のことを国立戒壇と呼称したことがあった。しかし、広宣流布の現実の段階に入った今、はたして、国立戒壇が、大聖人の御正意であるか否か、現時においてなおかつ国立戒壇論を主張することが正当なのか、誤謬であるのか、大聖人の仏法の本質論、現代の国家に対する認識の上から検討されなくてはならない。

ところで、この点については、すでに昭和四十五年五月三日、東京日大講堂における創価学会総会の席上で、法主日達上人猊下は甚深の御胸中より、左の如く宣言せられている。

「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて、国立戒壇という名称を使っていたこともありました。しかし日蓮大聖人は世界の人々を救済するために

『一閻浮提第一の本尊此の国に立つべし』

と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でない仏法に国立戒壇などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。

明治時代には国立戒壇という名称が一般的には理解し易かったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。

今日では、国立戒壇という名称は世間の疑惑を招くし、かえって布教の邪魔にもなるため、今後本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。」(以下省略)

この猊下のお言葉にすべて明らかであると思う。大聖人の仏法が、一閻浮提の宗教であるという本質論、国立戒壇という名称をかつて使用した背景、その名称を永久に廃棄するとの宣言が、この短いお言葉の中に含まれている。

この鳳詔を拝し、かつまた訓諭にもとづき、将来にいささかも疑義が生ぜざるよう、猊下に逐次御指南を仰ぎつつ、茲に一論を上梓する次第である。

二、国立戒壇の由来

戒壇とは、宗祖日蓮大聖人所弘の三大秘法の一つである。その戒壇の内容に言及あそばされた御文は、四百有余篇の御遺文中、三大秘法抄と一期弘法抄に拝するのみである。しかし、それらの御文に国立戒壇の語は見当らない。また二祖日興上人が大聖人の御付嘱を受け、戒壇建立を目指して富士に法燈を掲げたまいしより、御一代の著作記述中にも国立の字句はなく、三祖日目上人以下明治以前の歴代上人の著作申状等にも国立の二字を見ない。

これは、他の日蓮門下においても同様であって、恐らく明治以前には全く見当らないであろう。特に古来、他門系では三大秘法抄を意識的に無視または否定して、即是道場の理壇説を立てる者が多かったので、この点猶更のことであろう。明治に入っても、明治三十五年にいたるまで、国立戒壇ということをいった文献は見当らない。

最初に国立戒壇なる語を使用したのは、身延派日蓮宗より出て在家の教団を組織し、明治三十五年本化妙宗式目を論述した立正安国会(後の国柱会)主、田中智学である。立正安国会は大正三年に国柱会と改称したが、その国柱の名でも察せられるように、また当時の同会の出版物に徴するも、彼は明治の時代に伴う国粋主義者であったことが明らかである。

なかんずく彼の著述である本化妙宗式目は、当時の日本の国体思想を擁護した彼の代表作である。その所論は、王政復古以来の国体の精華をいやが上にも高揚する惟神思想と、神勅主権の憲法にもとづく国家観に貫かれている。いわば大聖人の仏法を、当時の時代風調に乗って、摧尊入卑せしめた思想だったのである。しかし、時流に巧みに迎合し、かつその才能に任せて論じた式目の講義は、大袈裟に表現すれば、一世を風靡した観すらあり、一般日蓮門下にも相当多大の反響を呼んだようである。
国立戒壇の名称とその思想が初めてあらわれたのは、まさにこの智学の式目の中においてである。

彼の国立戒壇論の要点をあげるならば

一、大聖人の御一生は国教の奠定(てんてい)にある。

二、大聖人の本門戒壇は国家中心である。世界の教法統一の根本として国家の道法化を目標とすべし。

三、三大秘法抄の王仏冥合とは法国冥合ということであり、その本門戒壇は、勅命国立の戒壇である。

以上の三点を一言でいうならば、彼の戒壇論は国家中心、国家対象ということに尽きると思う。その諤々の議論は、あくまで田中智学個人の見解であり、大聖人の仏法を曲解するところより生じたものである。日蓮大聖人の仏法は、国家次元の宗教ではない。人類共通の根本テーマである生命を根源的に掘り下げた、悠大なスケールをもった大宗教であり、一明治、大正の時代に通暢して、他に通じない国家主義団体の思想とは自ら月べつの相違がある。

さて、大正より昭和初期に至る間、右の国柱会を中心として、一般日蓮門下に富士戒壇論が盛んになるにつれて、必然的に本宗僧俗との間に論議接触が生ずるようになったのである。

国柱会系の富士戒壇論に共鳴する者は、その意義を論じつつも、肝心なる戒壇に奉安すべき本尊の実体について明らかでなく、或いは仏像造立といい、或いは大聖人御直筆御本尊中より時の国王の奠定されるところであると論じ、甲論乙駁帰趣を知らない有様であった。これらの信士、学人がたまたま当宗の法義を瞥見し、その浅見的判断より本門戒壇の大御本尊その他の法義を、卒時に批判する者があらわれた。これに対して本宗の僧俗が断固として反論し破折を加えたのも、当然であった。

この論議は、主として戒壇論が中心であったから、論中に本門戒壇に関する表現が必要となりかつ使用されたのである。この場合に当宗の法義を論難する相手が先に、田中智学の創唱する国立戒壇の名称を使用したのである。これを受けて立つ当宗側においても、当時として特に国立戒壇の名称を積極的に嫌う理由も発見されず、というより論議の的は、国立か否かということではなく、その戒壇にいかなる本尊が安置されるべきかということにあったため、国立戒壇という表現は、相手の表現に応じて使用し始めるようになったのである。

これが国立戒壇の名称がわが宗門で使用され始めた経緯であり、決して前に挙げた国柱会の思想に同調して使用したというものではない。

宗門関係の文献に国立戒壇の用語が初めて見出されるのは、大正元年十月、宗門機関誌白蓮華七巻十号に、正宗信徒荒木清勇氏が要法寺の富谷旭地霑氏の批判(本宗の戒壇本尊への論難)に対して、その妄を破す中に用語として使用している。

次は大正三年、白蓮華九巻一号に掲載の記事中、本宗奈良教会信徒と、日蓮宗某の問答の抄略記に見出される。

「我正宗の本尊は……国立戒壇建立の暁本門戒壇の大御本尊として奉安せられ云云」の一語を見るのである。

その後、昭和に入ってからは、国立戒壇の語が、宗門の文献に、多少散見される。しかし、いずれも、国立戒壇論として、積極的、体系的に述べられたものではない。(もっとも小笠原慈聞師のように例外はあるが)

以上の経緯からして、国立の用語は、明治維新後、日本国体の尊厳意識と惟神的国家思想が急激に鼓吹され盛んになったことに付随して発生したものである。したがって、それは明治以降の日本社会の思想的特殊性における一つのあらわれといえようが、それ自体にわが宗門の法義上の絶対性や本質があるとは、到底考えることはできない。

最も大切なことは、遣使還告の血脈の次第から、現御法主を大聖人と仰ぐべきであり、現在においては御法主、日達上人現下の御意向を仰ぐのが正しい。

その御当代日達上人が、序論にあげたように昭和四十五年五月三日において、また同年五月三十日、三十一日の寺族同心会の御説法、都合三回にわたって、国立戒壇を今後宗門として使用しないことを宣言あそばされている。更に、本年四月二十八日の訓諭においても、国立戒壇云云の文言こそないが、明らかに国立戒壇を否定された前提に立たれている。

それは、未来の広宣流布への大方針の宣言であることを銘記すべきである。

三、三国の戒壇建立の歴史について

次に仏教上の戒壇の歴史について一覧する。戒とは防非止悪の義で、五戒、八斎戒、十戒、四十八軽戒、二百五十戒、五百戒等、大小乗を通じ、在家出家それぞれにたもつべき詳細が定められている。要は「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」の四句偈をもってその根本精神とするのである。壇とは土を盛り上げて特別に高く作られた受戒の場所を云う。

始め仏陀の制戒は対象により時と処を問わず行なわれたから、市中山林至るところが戒場であって、特別に壇の設置はなかった。それが戒相として次第に整足されるようになって場所を定め、壇を設けて受戒が行なわれたのである。

唐僧道宣の戒壇図経によると、壇場を明すことも、もとは仏であるとし、昔は光明如来が初めて建立を説く故に人の謀りごとではないと断わっている。仏法の最高最大なる本門の戒壇も、この根本に照らすとき、仏意による建立と拝すべきであろう。

さて、歴史的には仏(釈尊)が祀園精舎にあったとき、樓至比丘が仏に結戒受戒のために壇を作らんと請い、許されて三壇を創置したという。即ち仏院の東に比丘のための戒壇を、西に比丘尼のための戒壇を、外院の僧院に更に一壇を作ったとあり、これを釈尊在世の戒壇の濫觴とする。また当時の仏弟子は修行のために作法によって結界し戒場を定めた。四分律刪補随機羯磨疏第二に

「戒とは通じて止行を収む。場とは精麤を揀択する乃至諸部に或は戒壇と名く。中国の寺には別に之を置く。此の郊壇の相の如く作法毎に階に登り位に就く也」

と結界の内面の戒場に戒壇を設けたことを示している。してみると仏教教団の発達と共に樹下山林或は寺院等いたる処に戒壇が設けられていたと思われる。また戒壇図経に、仏滅後三百年大阿羅漢優樓質那が北印度烏伏那国に大寺を作り、石戒壇の縦広二百余歩あったことを記している。並びにこれらは僧侶が築いたものと思われる。さらに西域求法高僧伝に那爛陀寺の戒壇を叙して

「根本殿の西に仏歯木樹あり。是れ楊柳にあらず。其の次の西畔に戒壇あり。方大尺一丈余ばかり云云

とあるのは、当寺が摩竭陀国王舎城の北にあって、仏滅後間もなく国王帝日が深く仏教に帰依し、大伽藍を創建してより、六代の王が次々に増建するところであり、寺全体が国王の外護建立であるが、戒壇自体は小規模であったようである。

中国においては劉宋元嘉十年(AD四三三)僧伽跋摩が印度より長安に来って衆を化導し、翌十一年南林寺に戒壇を立て僧尼に授戒せしめたのを最初とするといわれる。道宣律師感通録には晋の竺法護が瓦官寺に壇を建て、支道林は石城、汾州に、支法存は若耶渓に、竺の道一は洞庭山に、竺の道生は呉中虎丘山に等々、多くの訳経三蔵や中国の高僧が戒壇を建てたことを記している。次に道宣律師自ら唐の高宗乾封二年(AD六六七)に戒壇を建てたことが僧史略に見えており、以上の戒壇は憎の建立である。

中国における国王の関与としては、憎史略巻下に唐の代宗永泰元年(AD七六五)に大楽善寺に勅して方等戒壇を建て、須うる所の一切は官供なり、と伝えている。更に下って徳宋貞元十二年(AD七九六)永泰寺に勅して戒壇を置き、懿宗の咸通三年(AD八六二)四月一日京師の左右両街の四寺に勅して各々方等戒壇を置かしめたとある。これらは唐朝の仏法外護を示すもので、勅に依って行なわれ、その費用が官の供養によって築かれたことは、しいて官立といえばいえるであろう。因に方等戒壇とは大乗戒による戒壇である。かように中国では大小の戒壇、または僧侶や国王による戒壇が建てられていたのである。

次にわが国においては天平勝宝六年(AD七五四)四月五日、東大寺盧遮那殿前に戒壇を築き、聖武上皇、孝謙帝以下太后・太子・公卿等四百三十人が鑑真和尚によって受戒したのが、本朝登壇受戒の始めである。ついで五月一日、勅して壇を大仏穀の西に移し、戒壇の堂字を建立経営せしめられた。本朝戒壇院の濫觴である。同七年二月、別に戒壇院を設け、更に宝字三年(AD七五九)鑑真は唐招堤寺を建立し、淳仁帝は詔して戒壇を築かしめ、自ら菩薩大戒を受けられた。そして

「諸宗の度者は先ず招提に入って受戒学律せよ」

と天下に詔したので以来諸宗の得度者悉く此処に趨くに至った。同五年春、鑑真は奏上して下野の薬師寺、筑紫の観世音寺に各々戒壇を建て、中国、東海道、西海道の三処に区分して受戒せしめることとなった。

六十余年の後、天台憎最澄は久しく比叡に住して法燈を掲げていたが、畢生の念願たる大乗戒壇独立のため、弘仁九年五月二十一日(AD八一八)天台法華宗年分学生式を提出し許可を請うた。また八月二十七日勧奨天台年分学生式を重ねて上奏している。

由来南都の戒壇は鑑真の伝えた法華一乗の円意による戒法的精神を有していたが、南都教界に法華の開顕の妙旨が理解されていないところから、それが戒法の基本とならず、法相三論の権大乗思想と共に小乗戒に定着していた。桓武天皇の勅命による南都学匠の天台習学も徹底するに至らず、かえって三乗真実一乗方便の偏見に再住して北嶺の振興を妨害した。しかるに比叡山に戒壇がないため、天台宗の受戒者もあえて南都へ登壇せねばならなかったのである。従って二十四人の得度者中十四人は南都に至ったまゝ帰らぬ時もあったという。茲に最澄は法華一乗の光顕のため、自宗の維持防衛と発展のため、断固として小乗の戒壇を踏む非を鳴らし、円頓戒壇の確立を上申したのである。嵯峨帝は南都の憎綱に可否を閲せしめ、南都諸憎は翌年まで態度を保留した。そこで最澄は翌十年三月十五日、更に天台法華宗年分者向小向大式を上奏し、凡そ印度と中国には一向小乗寺一向大乗寺大小兼学寺の三種制あれど、当時の我朝に一向大乗寺が存在せず、また法華一乗の菩薩大戒の伝流の地なき故に、この大道を建てられんことを重請した。〈伝教大師全集 一-五四二〉

学生式の上表より一年を経て南郡の協議は漸く一決し、五月十九日護命長慧等は上表と奏文をもって最澄に対する反撃を試みた。また東大寺の景深は迷方示正論を作り二十八失を挙げて学生式を駁したと伝える。最澄は為に顕戒論三巻を著わして護命等の上表、奏文を弾劾、その妄愚を破し、遂に南都の諸人を閉口せしめた。このように南都に対する三乗一乗の権実論、小戒大戒の論諍は理論的に明らかに最澄の主張が勝利を収めたが、実際には教門における日本の重鎮として権威並びのない南都は、聊かもその権利を譲り渡すに至らなかった。朝廷の意志は最澄の願う大乗戒壇に傾いていたが、南都の頑強な拒絶によって敢て行なうに至らず、ついに最澄存命の日には勅許は下りなかったのである。

弘仁十三年(AD八八二)六月四日最澄入寂に村し天皇は深く哀惜したまい、七日を経た六月十一日をもって、叡山大乗戒独立允許の官符が発せられた。(伝教大師全集五附録一〇九)又翌年二月延暦寺の勅額および太政官牒が下った。それには、天台宗の得度は治部省及び南都憎綱の手を経るを要せず延暦寺にて行ない、延暦寺の別当は得度者に度牒を与えた後、治部省に下知すべきを定めている。依て三月に権中納言藤原三守と右中弁大伴国道を延暦寺別当として、年分二人を度し、四月には伝教の弟子義真によって菩薩大戒の受戒が延暦寺に行なわれた。

これより後淳和帝の天長四年(AD八二七)始めて勅を奉じて座主義真が円頓の戒壇院を叡山に建立したのである。

けだし宗祖大聖人が土木殿御返事(全九六三)に

「伝教大師の御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之を弘め円戎は死後に之を顕す。事相為る故に一重大難之れ有るか」

と仰せられたのも、迹門戒壇の難事をもって本門に例されたものであろう。

このように三国にわたる戒壇建立の史実を見てくると、夫々の時代と実情による特殊性があり、一様でないことが明らかである。そして時代が下るに従って難の多いことも、大聖人の右の御金言に対して看取されよう。

天平勝宝にあっては国主の信篤く、妨害者もなく師檀一致して戒壇を建立した。これに対し叡山の天長年間の戒壇は南都の様々の抵抗を漸く斥けることをえて義真が奉勅して建立したのである。

已上三国の仏法流伝における戒壇建立は、個別的と全体的、小規模と大規模、僧侶の建立と国王の建立、勅詔の有無等その実情は誠に多岐であって一定しない。茲に注意すべきは、国王が造られた例であったとしてもそれは国で造ったというより、国王の信仰によって国王個人か造立したのである。

以上のことからも、末法本門の戒壇が国立いう名称を付さねばならぬ理由はない。大聖人の仏法は日本一国のみでなく、全世界の民衆救済のため伝道すべき大法である。これに対し世間の法制制度、政情等の有為転変は無量であって、国立戒壇に執われることはかかる問題にみずから制約を作ることとなる。そのような考え方こそ大法流布の妨げとなるものであることを述べて、三国戒壇の略見を終る。

四、国立戒壇論における国家観の誤謬

これまで述べた通り、国立戒壇という呼称や思想が、明治三十年代以後の、国家主義的思潮が盛んになった時代背景の中で生れたものであり、戒壇史の上からも国立ということが戒壇建立の必須条件ではないことが明らかになったと思う。

しかるに、今日なお、大聖人御遺命の戒壇は国立なりと主張する人々があるが、その論拠と内容は如何なるものであろう。

実は、一般的に過去において国立戒壇を論じ或はその名称を使用した人々も、ほとんどは、只抽象的に、いつの日か天皇や権力者が帰依し、日本国中に広まる時がくる、その時、天皇の発願で立てられると、はるか彼方の夢の中のような宗教的願望を述べていたにすぎないと思われる。現実の問題として、国家における権力というものとの関係をくわしく分析した上で、具体的な方法論として述べたものは皆無といってよい。厳密にいえば、これらは“論”とはいえないであろう。立宗以来、今を去るニ十七年前まで七百年近くの間、日本国の国主は天皇であった。その間の宗教と、政治権力の現実の姿は、時の最高権力者を動かさなければ、戒壇建立も不可能な状態にあったことは歴史的事実である。そのような社会的背景の中で、微かな教勢のもとに各々の時点において戒壇を考えるならば、皇室を中心とする社会機構としての考えを持つことは当然である。

(歴代先師の中には、戒壇建立について言及された方もあるが、その表現は慎重を事とされ、ことに具体的な予定等にはまったくふれられていない。これは、その時になってみなければわからないという要素が多いことを深慮されたからであろう)

しかし、このような考えが逆に、現代において戒壇建立を想定するとき、大聖人当時のような天皇制や幕府体制が存在しなければならない根拠は決してありえないと信ずる。

およそ仏教教義には、純粋な真理、教法、修行等の成仏に関する部分と、社会現象との相関関係にある部分とが存在する。

注意すべきは、後者、即ち、社会現象とのかかわり合いのある部分であって、外的な条件の変化によって、そこにはおのずから一線が引かれなくてはならない場合があるということである。

例えば、大聖人は、時の最高権力者である皇室や執権に対して諌暁あそばされた。現代において我々が、大聖人の御遺命どおり国家諌暁を行なわんとするとき、皇室や執権を相手にしなくてはならないと考えるのが時代錯誤の論であることは、だれでも納得するであろう。第一、執権などは既に存在しないし、皇室は、新憲法下では主権者たる立場ではない。正しく解するならば、大聖人の御正意は、”時の最高権力者”に対して諌暁せよということであって、”最高権力者は誰でなくてはならない“ということまでは規定しようとされていない。そして、今日、最高権力者は、主権者である国民であることは論をまたない。つまり、国民一人一人への折伏こそ、現代における国家諌暁たるゆえんでみる。時の最高権力者の地位を占めるものが皇室か幕府か国民か、あるいは自由主義者が天下をとるか、社会主義者が政権をとるかということは、仏法の本質とは何らかかわり合いのない純然たる政治の世界で決まるべきことである。大聖人の仏法として関心を持つべきは、これら最高権力者が妙法を信仰し尊崇し、これを根底として行動を行なうという点につきるのである。もしそうでなければ、最高の俗間を超えた次元にある仏法が、低次元の政治によって規定され、支配される結果となるであろう。又、特定の権力機構や政治体制を認めないものは、信仰できないということになる。

かかる政治上の信条如何により御本仏への純粋なる信仰を妨げることは、仏法の普遍妥当性、万民救済という本質をねじまげる結果となろう。御在世当時の最高権力者が皇室であったから、大聖人はこれを国主、或いは王と呼ばれたのであって、いつの時代も永久に、そうであるべきだということまで規定をされたのではないのである。

また大聖人ご自身も必ずしも天皇のみではなく、時の北条幕府の最高権力者をも王、国主と呼ばれているように固定化して表現きれていないことにも注目すべきである。

我々は、かかる原則の上で、今、まさに戒壇建立を夢物語ではなく現実の問題として、具体的にその性格や次第を論ずべき立場にあるのである。この場合仏法の解釈としては他義をまじえず、あくまで大聖人の御真意を誤まってはならない。また、対象となる社会は、(もちろん未来への展望をはらんだ意味での)あくまで現実の社会を認識しなくてはならないのである。広宣流布のときは鎌倉時代の封建体制や、明治憲法の君主主義を復活せよなどという主張は、時代認識を誤っているということの他に、大聖人の仏法の教義に、それ以外の要素を持ちこんで教義とするということであり、大変な誤りとなる。この点、御法主上人の深い御内証としての、四月二十八日の訓諭を拝さなくてはならないと考える。

以上述べたところから明らかなように、過去において、ばく然と抽象的に述べられた国立戒壇の論議は、その時代や社会体制を背景として考えられ得る戒壇について、宗教的願望として述べられたものであって、(時代背景と思潮について、多少のずれがありうる。いわゆる下からの主体的変革のときは、思潮が時代に先行するが、他から与えられた形での変革では、変革後も前代の思潮がしばらく残存する。戦後しばらくの間、国立戒壇の考え方が残っていたのも敗戦による他動的な変革の故に、明冶憲法的感覚が残存したものであろう)それが後代の政治体制のあり方までを拘束するものではないということである。まして、戒壇の現実的考察がこれによって規定されるものではない。

ところで、以上述べたような抽象的国立戒壇論の他に、今日具体的な考え方として、国立戒壇を主張するものが、ごく少数ではあるが存在する。

その主張するところは、

一、戒壇は、日本一国を単位として、国家的な次元で正法帰依の為された時に、国家的公事として建立されるべきものである。

二、戒壇建立は、国家的意思の表明として天皇の詔と国会の議決(又は行政府の決定か、いずれともとれるが)にもとづいて、国家の手で行なわれるべきである。

というものである。

その根拠は、

一、三大秘法抄にある王法とは、国家の統治主権と解釈するべきである。

二、この統治主権を人に約せば、即ち国主=王つまり(現時においてもなお)天皇である。主権在民といっても、よくよく本質をみれば決して国民が統治をしているのではなく、国家そのものに統治権がそなわっているのであって、ただ、この統治主権に民意を反映せしめようとの指向を主権在民というだけである。(( )内は筆者)

三、三秘抄にいう”王臣一同”の王は天皇、臣は、直接政治にたずさわる大臣に万民を摂するものである。

四、三秘抄にいう”勅宣”とは、現時においても天皇の詔であり、御教書は、政府意思の決定と解すべきである。今日、国事には、議会の議決だけでなく、天皇の承認が必要となっていることからして、これは決して不可能ではない。まして、国事の中の大国事である戒壇建立には、当然天皇の詔と政府意思の決定が必要である。

というものである。

この、今日における国立戒壇論は、政治と憲法の上から、極めて幼稚な誤りを犯し、それによる現実の社会に対する認識の誤りが、まことにこっけいな時代錯誤の結論を導いていると思う。これらの点は、いずれも教義以前の社会認識の誤りの問題が多いのであるが、論をすすめるに当って、二、三指摘しておきたい。

まず、王法が即ち国家の統治主権なりとの主張は、何の根拠もない独断であると共に、政治学上の概念である統治主権という言葉の理解が足りないようである。

そもそも王法という言葉が、当時いかなる概念をあらわすものとして用いられたか。一つには公の儀礼(有職故実がその作法として知られる)を指す言葉として用いられたとする歴史学者の考証がある。その信憑性については、ともかく、もしそうだとすれば儀礼というものの本質精神は、それによって、行なう者の姿勢や心がまえ、或いは人格や道義の高さを表にあらわすためのものである。ここに王法即ち儀礼というときは、単に形式だけではなく、この本質精神をもふくんでのことであろうと思われる。

仏典上は、印度弥勒菩薩造とされる唐玄奘訳の「王法正理論」の題号等にみられるように、王自身が踏むべき道、いわゆる”王道”を意味するものとして用いられている例がある。(”王道思想”は東洋独特のものであり、西欧に発達した近代国家の場面で用いられる”主権概念”とはまったく別個の思想のものである)

他宗ではあるが、真宗の蓮如の唱えた「王法為本」の王法とは、王の為す政治内容という意味で用いられている。

それでは、肝心の大聖人の仰せられる”王法”とは何であろうか。

しばらく他の御書の御文によって、王法という言葉がどのような意味に用いられているかを拝してみよう。

「王法に背き奉り民の下知に随う者は師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するが如し」(富城入道殿御返事)(全九九四)

右文の王法とは、一応王の発する命令、法令であると解されるが、命令、法令を発することは即ち政冶の枢要な行為であり、つまりは王の行なう政治というようにも解釈できる。

「王法と申すは賞罰を本とせり」(四条金吾殿御返事)(全一一六五)

右の文は、王の行なう統治の原理の本質について述べ給うところである。つまり、この王法とは、具体的な命令や法令より一歩立ち入った、その根底にある基本原理と拝される。

「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し王法は仏法の擁護に依って長久す」(四十九院申状)(全八四九)

右文では、王法とは、個人ではなく、支配体制としての政権の担当者を指されている。

「王法の栄へは山の悦び、王位の衰へは山の欺きと見えしに、既に世、関東に移りし事なにとか思食しけん」(祈祷抄)(全一三五三)

ここで王法とは、平安時代の政権の主体者として、具体的に、京都の皇室を指されている。(山とは、山家=天台宗のことである)

「王法の曲るは小波、小風のごとし、大国と大人をば失いがたし」(神国王御書)(全一五二一)

ここで王法とは、政道とでもいえようか、王の行なう政治の基本姿勢、政治原理である。

以上見たところを整理すると、”王法”は二通りの意味に用いられているといってよい。第一は、文字通り、王の法であり、王のなす政治内容といという意味である。それは、権力主体者の発する法令(治世の命令)という具体的な側面から政治の基本姿勢、原理という理念的側面までをふくむものとして用いられている。

第二は、王そのもの、つまり、国家の最高権力者の意味に用いられている。当時の日本では、それは皇室、或いは皇室を中心とした支配体制であったことから、皇室と同義に転用されている場合もある。

それでは、三大秘法抄にいう”王法”は、どちらの意味に解すべきであろうか。王法という言葉、そして、別に、権力の主体者そのものを表わす王という言葉が存在することからも、本来的意義は”王の法”であり、王そのものと同義に解することは、例外的な転用といべきであろう。まして、”仏法”という”法”と対置しての用法であり、又、”冥ずる”という言葉の意味との関連からも、権力主体者そのものを指すとは考えられない。

従って、”王法”とは、東洋的国家観、帝王観の伝統をまえた上での、王の法、即ち王のなす政治内容(先に述ベた、具体的な法令という次元から、政道、王道、政治姿勢といった、より理念的、原理的次元にわたるところの)を意味するものと解明すべきである。

この王法、即ち王の法が、近代政治学上の概念である”国家の統治主権”と同義であると解することは明らかに誤った独断である。(もちろん、主体である王そのものと解しても、抽象的な統治主権と同じということはなおさらいえない)

今日における国立戒壇論者(以下単に国立戒壇論者という)は、前後の論より推察するに、国家法人学説ないし国家主権説の皮相的な理解(おそらく、原口雅行氏著「やさしい政治学」程度の初歩的な入門書の学説紹介によったものであろうか)の上に立って、かかる論をなしていると思われる。

政治学の上から、近代国家を論ずる場合の「主権」という言葉には、種々な意味が含まれている。

一つには、国民主権(主権在民というも同義)君主主権という場合の「主権」とは、”国家の政治のあり方を最終的に決める力”をいう。”国家における最高の意思”とも”最高の権力”とも言いかえられる。(だから、念のために付言するならば、君主主権の時代に、だれが王か国主かということは、即だれが主権者かということと同じであったといえよう。また、国民主権の時には、最高権力性という点から論ずれば、王、国主は国民であるといえようし、又、国民主権の時代に主権のない王室、皇室が存在しても、それは、君主主権の時のそれとは、本質的に異なるものであるということを充分認識しなくてはならない)

次に、国際法において、主権国、非主権国といって区別されるときの「主権」とは、”国家の独立性”という意味であり、日本国憲法前文第三項に用いちれている「主権」は、まさにこの意味である。更に、「主権」という言葉を、”国家権力の性格”を示す意味に限定してつかう場合がある。国家法人説でいうところの「主権」がそれである。このように、種々用いられる「主権」は、用いられる場合によって、次元とその意味が異なっていることに注意すべきである。これをわきまえずして用いたならば、非常な混乱をきたすのである。特にいわゆる国家法人説(国家主権説というも同じ)でいう主権概念と、国民主権、君主主権という場合の主権概念を並列混同して考えることの誤りは、新憲法制定直後にも一時みられたが、憲法学者達によって、明確に指摘され、改められているところである。

この点については、門外漢の私見を述べるよりも、学者の説を引用する方が解り易い。

例えば、有名な憲法学者で、国家法人説の代表者といわれる美渡部達吉博士の説は次のとおりである。

「主権在民とは、国家意思を構成する最高の力が君主に発することをいい、主権在民とはその力が国民に発することをいうもので、それは君主又は国民が統治権の主体たることを意味するのではなく、統治権は何れの国においても常に国家の権利であり、国家がその権利主体であるが、ただその統治権を発動する最高の意思が、国家組織上君主又は国民に属することを言い表わすのである。我が新憲法が国民主権主義をとっているというのは、この最後の意義においての主権、即ち国家の最高意思が国民に発することを主義としていることを意味する」(美濃部達吉・新憲法概論二六頁)

このように、主権概念を正しくつかいわけてみると、国立戒壇論者の誤りが浮きぼりにされよう。

国家に統治主権が存在するということは当然であり、それは、天皇主権か国民主権かということとはまったく違った次元のことである。まして、主権者即ち最高権力者が”如何に政治を行なうべきか”という原理としての王法とは、更に一段次元の違うことである。百歩ゆずって王法を統治主権と解したとしても、国家法人説でいう統治主権は、国家固有のものであり、君主のもつものではない。君主主権、国民主権という場合の主権者は、その機関であり、決して同一次元ではない。だから、国立戒壇論者のいう統治主権を”人に約する”ということが、現代における国主とか王はだれかという論議であると好意的に解釈しても、その答えは(主権論からは)天皇ではなく、国民とならざるを得ない。

まして、統治主権に対する国民主権、君主主権というときの主権概念は同列、同次元におけないとすれば、王法即ち王の法を統治主権なる概念でおきかえることは不可能である。つまり、国立戒壇論者は、二重の誤りを犯しているということである。

国家法人学説は、十八世紀のドイツに発した学説であるが、それは、君主と国民の間の主権争いの本質をそらし、君主の立場を擁護し、国家主義的立場を強化するために用いられたといわれている。

故に、誤って用いれば、政治的に重要な問題をあいまいにし、国家主義、全体主義を強調するための道具にされ易い学説であり、これをあえて論拠とするところに、国立戒壇論者の仏法以前の政治的信条を仏法の名のもとに他に強要しようとする姿勢がうかがわれる。個人の信条としては、いかような考えをもとうと自由であるが、仏法教義に名をかりて、これを他に強制することは仏法の筋道からして許されないことである。何よりも、それは、政治的信条によって、大聖人の仏法を曲げるものといえよう。

ここで、主権在民ということについて、少し述べたい。

明治憲法では、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治」することになっていた。しかるに、新憲法では、前文および第一条において、「主権が国民に存する」こと、および憲法自体が国民が代表者を通じて確定したものであると宣言している。又、国政が「国民の厳粛な信託によるもの」であり、「その権威は国民に由来」するものであるとして国権の起源を説明し、「その権力は国民の代表がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という民主主義の方法と目的を述べ、「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである」と宣言している。

これほど明確にされているものを、”国民が統治しているのではなく、民意を反映せしめんとの指向を主権在民というだけ”などということは、よほど常規を逸した時代錯誤の迷見といわれてもいたし方なかろう。国家法人説の学者すら主権は国民にあることを認めているにおいてをや。

或いは、日本の歴史において、種々な政権交替があったにもかかわらず、皇室が存続していることをもって、国主、統治権の主体とする根拠というかも知れないが、これも間違っている。新憲法以前は、いかなる幕府、執権、議会、首相といえど、その権力は主権者たる皇室に由来するものであった。しかし、新憲法下における国家権力は、すべて主権者たる国民の信託によるとされているのであり、この体制の本質的変革という事実を看過しては、正当な論議は不可能である。

次に、勅宣、御教書を、現時においてなお天皇の詔と国会の議決でなくてはならないとする誤りについて述べる。

いかに国立戒壇をとなえる者も、幕府とか執権職の存在しない今日において、御教書をそのまま実現せよという愚かさはさすがに自覚しているらしく、これを “国会の議決””内閣の意思”と現代的解釈に転じている。しかし、勅宣については、新憲法にも天皇の国事行為が定められていることをもって、天皇の詔であるとの解釈になお固執している。

しかしながら、いずれも、現憲法の解釈について明らかに誤りを犯しており、不可能を実現せよというのに等しい。

今日、憲法二十条に定められた政教分離の原則によって、国会も閣議も、「戒壇建立」などという宗教的事項を決議する権限を全く有していない。仮に決議したとしても、憲法違反で無効であり、無効な決議は存在しないことと同じである。やれないことや無いことを必要条件に定めることは、結果的には、自ら不可能と決めて目的を放棄することになる。

又、天皇の国事行為というのは、憲法第六条、第七条に天皇が行なうと定められた行為のことであり、それ以外にはない。従って、憲法第六条、第七条によって天皇に与えられた諸々の行為を総称して「国事に関する行為」と呼んでいるのだともいえる (有斐閣、註解日本国憲法上、一二四頁)。それ以外に、一般、抽象的な国事はあり得ないから、”国立戒壇建立こそ国事の中の大国事”といってみても、およそ荒唐無稽な論議であり、これについて天皇が、詔を発することは、やはり、不可能という他ない。できないことを求められて迷惑されるのは、むしろ天皇であろう。それでも、あえて、戒壇建立のために天皇の詔と国会の議決を要するというならば、戒壇建立のときには、現憲法を改正し、明治以前の天皇制を復活すること(明治憲法下でも、かかる詔を発することはできないと思われる)と、政教分離の規定を廃止することを主張しなくてはなるまい。そして、もしもこのように戒壇建立のために、政治体制を昔へもどせという主張をすら辞さないという、教条主義をつらぬくならば、そもそものはじめから、広宣流布の時には、鎌倉時代の政治体制にもどすべしとの主張をなすべきであって、なまじ、”国会の議決”などと中途半端な現代的解釈をするのは、その主張に首尾一貫を欠き、かえって矛盾をきたしている。

しかるに、”国会の議決”などと、現代的解釈へ一歩ふみ出したことは、既に教条主義では実現できないことを悟り、これを捨てて、現代への適応へ一歩ふみ出したことであり、そうであれば、現憲法の定める制度にまで歩みよってはならないという根拠は、既に失ったものといわなくてはならない。少なくとも、現時において実現不可能な解釈をしたのでは、五十歩百歩、何のための現代解釈かといわれよう。

ここで考えなくてはならないことは、仏法は何のための存在かということである。一般的用語を用いるならば、それは、人間のため不幸をとりのぞき、幸福をもたらすことを究極の目的とするものであるといえる。人間の幸福のための手段として、政治・経済・科学・文化、その他あらゆる分野が存在し、それぞれの役割を果たしている。仏法は、いうまでもなく、その根底となるものであるが、しかし、すべての領域を具体的に支配したり規定するものではない。それぞれの分野には、それぞれの法則性が支配していることは論をまたない。逆に仏法が政治や経済等によって規定されるものでもないことは当然である。

はじめに述べた如く、仏法上の目的が、一定の政治体制のもとでしか実現できないと考えることは、仏法が政治に支配され、従属させられることを認めるものである。又、政治体制を、政治自体の原則的な必要からでなく、宗教目的のためだけに変更するということは、明らかに矛盾しているといわなくてはならない。

又、大聖人の仏法は、時代、社会を超越した普遍妥当性をもつものであり、それ故に、末法万年、尽未来際まで行き止りがなく流布すべきものである。いかなる時代、いかなる体制においても、人々を幸福にする力のあるものである。この本質は、特定の政治体制を仏法の存在条件とするという見解と、明らかに相容れないものである。

このように考えてくると、国立戒壇論者の主張の基底には、中世国家と近代国家との間の性格、構造上の相違ということを無視した極端な時代錯誤が根づよく存在するように思われる。中世封建国家における王のもっていた国家権力と、民主主義国家における国家権力との間には明らかに相違がある。

例えば近代国家においては、権力は強大化したという一面もあるかわり、主権者たる国民が定めた憲法によって、国家権力の及ぶ範囲を自ら制限するという点にその最大の特色があるといえよう。「人権宣言」をもつことが、近代憲法の要件であるといわれることは、このことを表わすものである。特にその中で、重要な要素を占める信教の自由、そしてその制度的保障である政教分離の原則を無視することはできない。中世国家では、国王は、宗教に対して支配権をもっていた。しかし、近代の進歩的な国家において国家権力は宗教に一切関与できない。そしてこのことを定めたのは、他ならぬ国主・王であるところの国民自身である。これによって、戒壇建立についても特別に勅許や政府の許可を必要とせず、自由にできることになったのであり、いわば信教の自由の定め自体が、従来の勅宣や御教書にかわる国主たる国民の許可であるともいいうる。信教の自由の原則は、大聖人の仏法と、何ら抵触するものでもないし、むしろ、信教の自由あってはじめて、真の広宣流布が実現できるという現実を直視するとき、軽々に「国法による謗法の禁断」などというべきではない。

中世封建国家では、権力構造、社会構造が今日のそれより比較的単純であったといえる。その頂点に立って、国家権力が、すべてを統括することも可能であったろうし、それ故に、仏法の働きかけが、かなり率直に権力者そのものに向けられたことは否定できない。しかしながら現代の民主主義社会をみると、単にそれは主権者が交替したというだけではなく、権力構造、社会構造そのものに大きな変動があったことを知るべきである。

一口に国民主権といい、民主主義という概念にも、憲法論的なあるべき側面と、政治学ないし社会学的な現にある側面とがある。(以下原田鋼・政治学原論三四四頁より要約)

「国民主権における国民とは何であるか。もとより理念的には、主体的個人の集合概念である。しかし実体論的には、解答は必ずしも単純でない。この意味における国民は、固定的なものでなく分析的にみるならば、国民のすべてではなく、最高の政治意志につらなるものは、限定された選挙民団体であることもあるし、さらに限られた議会構成員であることもあろう。すでに考察した権力構造内の各社会階層も、政策決定過程で主権的な機能を果すことができる。また国民を、主権的な国民の意味において政冶的範疇としてかんがえるならば、そこにおける人的な要素が蒸発して、むしろ国家機関としての『議会』となったり、あるいは一層根源的な、しかもある意味において、一層抽象的な『世論』としてしめされる場合もあろう。のみならずまた、主権的な契機は、一層浮動的な政治力として、あるいはまた、経済力としてもあらわれ、それらが主権的な意志形成に加わってくるであろう……(中略)……このように国民主権の内容は、きわめて複雑な実体論的分析をゆるすものである。この点に関するかぎり、主権の帰属点は、カント的な範疇表を使うならば、特称的でなく、全称的である。すなわち主権の帰属点は、基盤社会の状勢変化に応じて、窮極において国民主権の理念性を前提としながら、君主、選挙民団体、議会講成員、議会、政党勢力、経済力、最高裁判所、世論、組合勢力等きわめて複雑なものとして分析される」

このような社会構造の複雑化は、当然のこととして、価値観の多様な分化をも来たしている。

いわゆる政治権力の枠外に位置している宗教、文化、学問などがこの社会構造の中では重大な影響力をもつようになっているということである。しかも、これらの現象は単に一国内にのみとどまらず、広く国際間においても顕著な傾向である。

中世国家は、政治権力のみが社会を動かし、統制する力を独占していたといっていい。

したがって、もし仏法が社会に働きかけ、深く広い影響力を及ぼして行こうとすれば、政治権力に的をしぼることが必要であり、又、それ以外にはなかったのである。

ところが、前述のように、現代の社会構造ないしその価値観は極めて多元化、多様化の様相を呈しているのであるから、中世国家の社会構造に対するような方法でやっていては、実態を無視したものとなり、何らの実効性をもちえないことは明瞭である。

かかる現状を認識した上で、今日、王法の解釈をするならば、王法が政治内容だとするのも、なお不充分であり、「王法イコール政治をふくむあらゆる社会生活の原理」とならざるを得ないのである。

なお、大聖人の御書の中には、仏法が、社会のいかなる面に影響を与えていくかを示唆された御文が散見される。

一例をあげるならば、減劫御書に「智者とは世間の法より外に仏法を行ず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり、殷の代の濁りて民のわづらいしを太公望出世して殷の紂が頸を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし張良出でで代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏已前なれども教主釈尊の御使として民をたすけしなり、外経の人人は、しらざりしかども彼等の人人の智慧は内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり」(全一四六六)との仰せがある。

この御文は、法華経の「実相と相違背せず」これを釈した天台の「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」の経釈を引用して具体論を述べられたものである。

世間の法が、実相たる妙法と違背しないというのが、法華経の精神である。それは、世間の法の根本が、人々を幸福にするためであり、この、人々を幸福にするという精神が仏法だからである。

したがって、智者というのは、世間の法よりほかに仏法を行じているのである。「世間の法より外に」ということは、世間の法は世間の法として行じ、その根底に仏法を行じているということである。

その後の事例は、たとえ、仏法を知らなくとも、民衆の苦悩をとどめ(抜苦)あるいは民衆に楽を与えた(与楽)慈悲の指導者は、内心に仏法の智慧をさしはさんでいることを示されたものである。

ここに、王法という言葉はないが、「世間の治世の法」というのが、王法にあたる。したがって大聖人の用いられる王法には、世間法といった意味合いがこめられていることにも注目すべきである。

(本章における論述の中で、政治、憲法論にかかる部分については、宮沢俊義博士の著書、および、註解日本国憲法、憲法講座等の諸文献に負うところが多いことを、念のため付言いたします)

五、世界的宗教としての仏法

已上のごとく国立戒壇論者の中には、宗祖大聖人の仏法を将来国教に奠定すべく、またそのために、憲法における宗教の自由を敢て改変すべき思想的要素があるものと推測される。しかし本来大聖人の下種仏法は、一国に跼蹐するものでなく、広く世界民衆を救済する世界的宗教の最たるものである。この点から国立戒壇論の執見を教訓したいと思う。

世界における宗教の起源発達の歴史を通観するとき

一、種族的宗教

二、国民的宗教

三、世界的宗教

の三に分類される。これについて比屋根安定著、世界宗教史(七三頁)の一節を左に引用する。

「先ず種族的宗教の特質を抽出して些か説明しよう。(中略)古代にては個人はその所属する社会の一員たる資格に依ってのみ、有形無形の生活資料を受用することを許可された。(中略)原始民族にとって宗教は社会団結に直接関係した事柄であった。例えばアニミズム(註…霊魂信仰)は社会共通の心理生活にて、タブウ制度は原始社会における宗教的道徳の社会性をしめし、トオテム崇拝(註…集団成員の特殊な自然種信仰)は種族の団結を固うする宗教的機能をなし、(中略)神話はその種族の業績を世々に語りつぎ語り伝える材料であった。

然るに倫理教の時期に入ると種族が漸く国家を構成して釆て、宗教も著しく国家的に傾いてくる。かくて国家の基礎が固くなるに伴うて、宗教は国家固有の宗教となり、或る国民に限って信奉せられ、他国民はその宗教信仰に与らない。ギリシャやローマの宗教、バビロニヤやアッシリヤの宗教、ユダヤ教、神道の如きは国民を単位として之に基いている。ユダヤ教の神のエホバがアッシリヤの神アシュシュルと同じく嫉妬の神と呼ばれたり、欽明天皇の朝に物部氏や中臣氏が、蕃神(仏)を祭らば国津神の冥罰を蒙るべしと懸念したのは、ユダヤ教や神道が国民的であった消息を語ろう。

然るに国民が世界という広い観念を抱き、宗教も伝道を主にして来ると、宗教は発達して世界的宗教に化せざるを得ない。世界的宗教は広く伝道することを主眼とし、国民という障壁を撒し、地の果てに至るまで信奉さるべき宗教となる。キリスト教や仏教は世界的宗教に属し、信者がいかなる国籍の人であるかは措いて問わず、仏教経典や新約聖書には、世界的宗教の宣言が散見している」

やや長いが敢て引用したのは、第二の国民的宗教の説明において、国教の背景となる宗教の時代、性質、程度等が浮き彫りされていると共に、第三段階としては世界的宗教としての仏教の位置が示してあるからである。

右に明らかな通り国教の形をとるのは、日本においては神道あたりまでの第二段階の宗教である。神道が軍国主義者に利用され、第二次大戦前までは、明治憲法の信教の自由の規定にもかかわらず、これを空文化し、神社信仰が国教的性格をもって国民に強制されたことを記憶する人は多い筈である。立憲政治以後においてすらかかる状態があることは、神道が本来祭政一致態勢から出発したものであり、国教的性格を有つことを物語っている。しかるに仏教は本来が世界的宗教なのである。その教理のドグマを排する普遍妥当性といい、一切衆生救済を標榜する慈悲の広大さといい、一国一地に執われることなく、より自由により正大に伝道救済へ進む性格を有つのである。キリスト教もその内容と実績におい世界的宗教の面目を保っているが、生命の原理を掘り下げた教義内容よりすれば当然仏教が勝れておる。この点現在より未来を指向するとき、仏教こそ真の世界的宗教といえるであろう。

また仏教の中においても、小乗より大乗、権大乗より実大乗、迹門より本門、本門より文底下種の大法と従浅至深して、その教法の真実性と民衆救済の確実性は益々明らかとなる。日蓮大聖人の仏法はまことに広大な仏教の真髄であり、その目的こそ実に一閻浮提広宣流布と世界民衆の救済に存するのである。かかる大仏法を日本の国教とすること自体、第二段階の神道のあたりまで逆行し、引き下げる時代錯誤といわざるを得ない。

国立戒壇の主張も右の国教論と終局的には同致同轍になると思われる。すなわち国立戒壇を目標として実践に移すとき、国家で建立する為には、国が特定の宗教に関与しないという現憲法の改訂が必要となる。その為には国会の議決を要しかつ国民大多数の支持がなければならない。それがあったとしても猶かつ異宗教異宗派の必死の反対と抵抗は当然ありうるので、従って必然的な対抗手段としての制圧が必要となることも想像される。

かつてローマカトリック教会に於て異端者禁圧のため設けた宗教裁判が、十三世紀より十八世紀までの間、いかに惨虐と酷薄をきわめ、血を血で洗う非人道的なものであったかは西洋史が証明している。これと同様な事態が現出しないと誰が言えようか。それが果して仏教の精神であり大聖人の御本意であろうか。いな大聖人の御正意も立正安国論の趣意も決してそうではない。大聖人当時は為政者自身が邪教を保護し信仰し肩入れをしていた為に、先ずその謗施を止めしめるべく諌暁を加えられたのである。しかるに現在は当時と全く様相が異なり、為政者が公人として特定の宗教を保護することは憲法によって禁じられている。また主権者の意志によっての謗法禁断は全く不可能な状態である。かかる場合その表面相の一部のみをとって国教論や国立戒壇をのべることは、時代錯誤であり、まきに舷に刻するに異ならないのである。

再び言う。日蓮大聖人の仏法は世界民衆救済の宗教である。撰時抄には

「彼の自法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内八万の国あり、その国国に八万の王あり、王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(全二五八)

と世界広布の大確信が示されている。また法華取要抄に

「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からんものか」(全三三八)

また波木井三郎殿御返事に

「然りと錐も本門の教主の寺塔、地涌千界の菩薩の別に授与したもう所の妙法蓮華経の五字未だ之を弘通せず(中略)当に知るべし残る所の本門の教主妙法の五字一閻浮提に流布せんこと疑い無き者か」(全一三七二)

等の鳳詔を拝する。まさに真の世界宗教としての下種仏法の意義を明示あそばされたものであろう。すなわちあらゆる人種と国境を超越し、主義や思想の村立を止揚して一切の世界民衆が救済されて行く大仏法である。人間生命の本源的な改革をもたらし、真の幸福を教導する大宗教である。しかる故にこそ日本において、国教とか国立とかいう如く一国の殻にとじこもる考え方は世界各国における妙法広布を阻害するものに外ならない。その理由はかかる国家的宗教に対する各国の危惧と嫌悪を招来することが火をみるより明らかだからである。権力に依存するのでなくたゆまざる折伏教化によって、一人より一人と、人間本来具わる正信を湧現せしむることこそ正法弘通の本来の姿である。しかも、今正に世界広布の時が来ておる。本仏大聖人の三大秘法は世界に流布し、海外数十万の民衆が歓喜に燃えて信仰に励んでいる。終戦前において何人が此の姿を想像しえたであろうか。そして一昨年五月三日の猊下の御宣言こそ、かかる事態を背景とされての一閻浮提広宣流布の方略を大きく決定あそばされたものと拝すべきである。

六、三大秘法抄の戒壇の文意

大聖人の御書においては、事の戒壇の法義は、三大秘法抄と一期弘法抄にのみ示したまう処である。国立戒壇が大聖人の本義でないことは、すでに様々な角度から論じたが、国立戒壇の論拠も、その解釈の是非は別として、三大秘法抄の戒壇の文になる。

したがって、当抄の文意を拝し、根本的な形で、その是非を明らかにしたい。

まず、その文を念のために、ここに掲げておく。

「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」(全一〇二二)

右の御文中、初めの「王法」については、国家の統治主権などと解すべきではなく、王の法、すなわち王の政治内容であり、今日ではさらに進んで「政治をふくむあらゆる社会生活の原理」と解すべきであることは、すでに詳述した通りである。この点については、堀米日淳上人も「一般世間の法にも通うところで仏法の出世間法なるに対し、せ間法を意味せらる」という解釈をされていた。

それでは次の「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」とは、どういうことであろうか。

第一に王法が仏法に冥ずるとは、王法が仏法の慈悲の精神、原理に冥々のうちにもとずいていくということである。王法の理想は、民衆の福祉にある。その理想を実現していくことが、そのまま仏法に冥ずることになる。具体的にいえば、表面に現れないが、妙法を持つ人が次第に数を増し、確実に正法を受持信仰するところ、それぞれ個々の目的、次元は異なっていても、政治をふくむ世間法の一切が、次第に仏法の正しい教意に契合するようになる。すなわち、これは、世間法を中心とする立場で、冥々時々裡に静かにその仏法的精神化が浸透することと解されよう。

第二に仏法が、王法に合するというのは、仏法の慈悲の精神、原理が、仏法を持った人々の社会での活躍をつうじ、現実にあらわれていくということであり、仏法側の姿勢であるといえる。即ち、世間法中に仏法の精神があらわれ、契合する意と思われる。

両句は結局世間出世開法の相互契合の両面というべく、必ずしも前後因果の差異なるを要しない。冥に即する合であり、一分の冥あれば一分の合あり、百分の冥あれば百分の合があらわれる。これこそ広宣流布戒壇建立の原理を示されたものと拝する。もちろん大聖人のお考えにおいては、当時の実情に即して一往国の主権者が中心となって、かかる冥合運動のあることを御想定あそばした事であろう。但し再往本仏三世の冥鑑においてはそうはいえない。今日の主権在民の上からは民衆自体の冥合運動であると拝せられる。

また今日、王仏冥合は、境智冥合と同じように、冥合で一つの熟語と考えることも可能である。というのは、一般的にも冥合で一つの熟語を形成していたと思われるからである。大漢和辞典(諸橋轍次著)には、冥合とは「ふかく合一する」とある。

すなわち、この立場からいえば、王法と仏法とが深く合一することが、王仏冥合である。深く合一するとは、生命の奥深い所で合一するということで、仏法がそのまま生の形で王法にあらわれてくることではない。それは、仏法が仏法の使命に生き、王法が、その理想実現に専心していくとき、結果として自然に冥合するということなのである。したがって、今日、王仏冥合と政教分離とが抵触するものでないことは明白である。いずれにせよかかる冥合の文意において国立なる趣旨は全く見出しえない。

この「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」は”法”について述べられたものであるが、どうしてもそれを推進していくには”人”が大切である。そこで次に「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」と仰せられたと拝するものである。

王法が仏法に冥ずるためには、王法の当事者が妙法を持たなくてはならない。そうしなければ、その当事者の生命の内に慈悲の顕現がないからである。しかし、今日、王法の当事者は、詮ずるところ民衆人一人であり、その一人一人が三大秘法の仏法を持っていく必要がある。また仏法が王法に合するためには、当然、妙法を持った人の社会での活躍が必須の条件である。

すなわち「王臣一同」が「三秘密の法を持つ」ことが、王仏冥合の絶対の条件であることがここに明らかである。

この「王臣一同」ということであるが、現代では、民衆が王であるとともに臣である。

ゆえに「民衆一同」と読むのが、今日では正しいのである。

この王ということについて、現法主日達上人は、世間儀典的(即ち世間法)からいえば転輪聖王の出現と申されている。転輪聖王とは武力によらず、計り知れぬ知力と思想ならびに無限の徳をもって、戦わずして世界を平定する王といわれる。また信心内感的(即ち出世間法の信感)からいえば、正法を受持する民衆との意と承るところである。すなわち、今日信心実践の上から転輪聖王とは、武力、権力によらず哲学の力、慈悲の力、智慧の力で、時代をリードする民衆連帯の力であるといえる。

「一同」とは大勢の形容と思う。この一同を日本国一人も残らずの意として固執すべきではなかろう。

類文として如説修行抄(全五〇二)の

「法華折伏破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなくせめおとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成って妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壌を砕かず代は義農の代となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん云々」

の御文は、「一人もなくせめおとし」と「日本一同に」との関連から、表面的には日本国中謗法者一人もなくとの文勢なり、ニュアンスが受けとれるが、これは本仏の大慈悲であり窮極の理想として堅く信じ奉るところであるが、それと広布の現実をふまえた拝し方は、おのずから階梯が存するのである。大慈悲の理想をそのまま信受し奉ることも当然であるとともに、理想の現実化としての広布の実現に邁進して、その現実に徹してゆくことも必然の道理である。一辺のみに囚われるものは真理に通ずるとは云えない。故に一同の文をもって文字通りすべてが、信仰に入らねば戒壇建立をすべからずということがあれば、明らかに守文の徒というべきである。

又再考するに、大聖人の御書における「一同」とか「一人もなく」という用例は、実際には”すべて”を意味するものでなく、ある意味を示される場合が殆んどである。

撰時抄(全二七四)

「其の上設い法然が弟子とならぬ人々も、弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし、心よせにおもひければ、日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり、此の五十年が間一天四海一人もなく法然が弟子となる。法然が弟子となりぬれば日本国一人もなく謗法の者となりぬ」

右の「日本国一同」や「一人もなく」の表現は、念仏信仰の盛んな意味をあらわす形容であり、反対者や他の宗旨の者も数多くいたのだから、実数は三分の一にも充たなかったであろう。

神国王書(全一五一六)

「百済国の聖明皇金銅の釈迦仏を渡し奉る、今日本国の上下万人一同に阿弥陀仏と申す此れなり。」

この「一同」もすべての人でなく、実際に称したのはごく少数であろう。当時の弥陀信仰の大意をとらえたのである。

富木殿御書(全九七〇)

「今日本国の八宗並びに浄土禅宗等の四衆、上主上上皇より下臣下万民に至るまで皆一人も無く、弘法慈覚智証の三大師の末孫檀越なり」

右の「下臣下万民」「一人も無く」東密台密の三大師の末孫檀越との御表現も、実際にかかることではない。その証拠に実際にそうだというなら前掲撰時抄や神国王書は「一同に」「一人も無く」法然が弟子等とあり平仄が合わない。真言の教の賑いの意をとっての仰せである。

本尊問答抄(全三六九)

「其の後日本国の諸碩徳等各智慧高く有るなれども彼の三大師にこえざれば、今四百余年の間日本一同に真言は法華経に勝れけりと定め畢んぬ」

この一同もその趨勢の意をとっての仰せであり、実際の数値としての意味でないことは明らかであろう。

治病大小権実違目(全九九七)

「物部の大連等の諸臣並びに万民等は一同に此の仏は崇むべからず(乃至)三災七難先代に超えて起り萬民皆疫死す」

右の例もすべてが崇むべからずと主張し、すべてが疫病で死んだのでないことは無論である。

乙御前御消息(全一二二〇)

「日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんとせしかども、今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべし」

これも国主権臣等が大聖人を憎んで行なう流罪死罪に、万民の意志をも含ませられたのであり、中心にすべてを例する意味の上からの仰せである。

以上差し当って六文を挙げたが、「一同」「一人もなく」の御用例は、数値の上の絶対性を示さるるものでなく、何らかの意義を表わすためのものである。従ってそれを数値的意味に解することは誤りである。とすればこの「王臣一同」も文字通り王臣のすべてという解釈に執われる必要はない。

次に

「有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」

とは、涅槃経金剛身品に出る仏法守護の因縁である。無量劫の昔、歓喜増益如来の滅後、破戒の比丘等が正法を持つ覚徳比丘を害せんとしたとき、有徳王の擁護によって難を逃れることが出来た。王は敵と斗い全身に庇を負って命を失ったが、その功徳により阿閦仏の国に生まれその仏の第一の弟子となった。この有徳王とは釈迦仏であり、正法を守る果報によって、今日法身不可壊の身を成就したのであると説かれてある。

この文を引き給う趣旨を拝するに、正法を立てることは迫害反対があってまことに難事である。すなわち末法において権実雑乱して人々は如来教法の帰趨に迷い、正法に対する怨嫉盛んなるとき、身命を惜しまずこれら一切の障擬を打ち破って正法を守護確立し、弘通を図ることあるを、大聖人はかねて鑑みさせ給うたのである。

有徳王、覚徳比丘は経典の事例であって、これを説いた釈尊の己心に存することである。従って末法の我々も信心の内感の上に考えるべきことであろう。この有徳王、覚徳比丘の関係は、同じく涅槃経に「内に智慧の弟子有って甚深の義を解り、外に清浄の檀越有って仏法を久住せしむ」とあるように、僧俗一致して異体同心に広宣流布に進んでいくことをいうのである。

「末法濁悪の未来に移さん時」とあるごとく、決して、戒壇は、安穏と平和のうちにつくられるものではない。むしろ濁乱の世に、苦悩の民衆を救うために、令法久住、広宣流布を願う信心強き人々によって建立されていくのである。したがって、この文の意は、広布完成のみを示すものと拝するよりも、完成にいたる因の道程をも含ませられたものと拝すべきである。

以上「戒壇とは……移さん時」の文全体が戒壇建立の時を決する条件を示された御文であるが、なかでも「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」とは、総じて王仏冥合を”法”の面からその姿を示し、「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」というのは ”人”の面からその様相を述ベ、さらに「有徳王、覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」というのは、戒壇建立の時の世相を述べられると共に、我々の実践を示されている。

したがって、戒壇の建物は、広宣流布が一切完結した後に建てられるという見解にとらわれてはならない。また、昔の一国は、今日の全世界であり、世界的にみれば、日本一国の広宣流布が進んでも「末法濁悪」の時代であることには変わりない。

さらに、大聖人の仏法は、本因妙の仏法であり、民衆救済を根本とする。一切の人々を救った後に建てるというのではなく、むしろ一切の人々を救うために建立するところに正意がある。

次に「勅宣並に御教書を申し下して」とは、戒壇建立の手続を示されたものであろう。ところでこれは、国家が戒壇を建てるという勅宣並びに御教書を出すのか、それとも、宗門で本門戒壇を建ててもよいという許可を勅宣と御教書という形で出すのかという問題がある。歴史上の事例から考えると、まず後者の方ではなかろうか。

かの戒壇の歴史で述べたごとく、梵漢和の三国における戒壇について、強いて一往その建立の趣意より名称を付すれば、僧立、宗立、官立、王立、といろいろに呼ぶことができよう。但しこれもその出資者のいかんによって定めるのか、建立の発願者によるのか、官の命によるや、はたまた官の許可によるや、官供によるや、その時々の趣旨実状において、その何れを採るかはさらに一定できぬものがある。このなかで、勅によること、及び官費と思われることからして、東大寺の戒壇が国立的といえばいえるが、これも厳密にいえば国王の個人的造立である。大聖人が、しばしば先例として引用される叡山の戒壇は、義真の建立(実質的には伝教大師の努力)であって、官の許可並びに天皇の詔が下りたのみである。大聖人の場合も、この叡山の先例にならって「勅宣並に御教書」と仰せられたのではなかろうか。

叡山の場合は、平安時代初期であったので勅宣のみであって御教書はない。御教書とは平安中期以降に行なわれた書札用の文書の一種であり、平安当時の用例では、天皇以下公卿たる三位以上の出す書札用文書をとくに御教書と呼び、摂関政治以降は公的性質を帯びるようになったという。鎌倉幕府が開けてからは、将軍の命令を伝える文書として広く用い、六波羅や鎮西の探題も出すようになった。

大聖人が、勅宣のほかに御教書をあげられたこと自体、当時の時代背景を考慮されてのことと思う。したがって、現代には、現代の時代状況を考えなくてはならない。勅宣にしろ御教書にしろ、一定の制度の下における一定の地位にある者の発する公文書という性質のものであり、これを日蓮大聖人が絶対不可欠のものとされるはずがない。

今日においては、もはや大聖人の時代におけるような勅宣はありえない。また、当然、御教書もない。したがって、現在もなお、こうした古い時代の形式に固執し、戒壇の本意を失うことがあるとすれば、それは誤りというべきである。

もし、これにあくまで固執するなら当然、憲法改定が必要になる。これは、まさに時代逆行であり、また宗門としてこれを主張することは、宗教の立場と政治の立場を混同することになる。宗教の立場は直接政治に容喙することでなく、宗教自体の徳化において政治その他を善導するにある。大聖人の御書もこの御こころに貫かれており、宗門の理想の達成が、直接の政治の場としての憲法改定を前提とせねばならないということは、まさしく大聖人の仏法の本意に背くものである。

それでは、現代においては、この「勅宣並に御教書」は、どのように考えるべきか。結論からいえば、そうした文書は現代ではありえないし、必要ないのである。消極的意味からすれば、先の叡山等の例から考え合わせて、一宗としての正統かつ独自の主体性を獲得せんがためと解することができる。これはすでに現憲法の信教の自由の保証によって実現されていると見てよい。事実、この結果、戦後民主主義下になって、はじめて、宗門始まって以来の、幾百万人にも及ぶ未曾有の布教が達成されているのである。また、積極的意味においては、民衆に対し、また各分野の指導者に対し、大聖人の仏法の偉大さを知らしめ、理解せしめていくことのなかに、この御文の精神は含まれると考える。

これについて、勅宣を天皇の国事行為としての承認、御教書を国会の議決、行政府の意思として国立戒壇を、主張することの誤謬は、すでに詳述した通りであるので、ここでは略す。

次に「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて、戒壇を建立す可きものか」

の文中の「最勝の地」とは、一期弘法抄に「富士山」とあるごとく、富士の麓の地であることは明らかである。現在の富士大石寺を中心とする広々たる富士の霊地に、大聖人の戒壇建立の本意があったと拝する。本門の戒壇は、一宗の中心であり、かつまた民衆救済の根本道場である。現在、本門戒壇の大御本尊まします富士大石寺こそ、本門戒壇建立の地であることは明らかである。

凡そ戒壇建立地の大前提たる富士山は、大聖人の定め給うところながら、その山麓の何処であるかは、唯授一人の血脈を紹継され、時に当っての仏法上の決裁を示し給う現法主日達上人の御指南を基本とすべきである。戒壇建立の地は、正本堂の意義に徴するも大石寺であることを拝信すべきである。

次に「時を待つ可きのみ、事の戒法と申すは是なり」の文を拝する。

まず「時を待つ可きのみ」の「時」をどのように考えたらよいのか。

仏法の「時」というのは、本質的には、随自意で判断すべきものである。日蓮大聖人が今こそ、三大秘法の大白法流布の時と判断されたのは、究極するところ、大聖人の御内証からの叫びであった。人が、どう理解しようが、どのように反対しようが、この「時」だけはどうしようもない。すなわち、人々の機情よりさらに根源的なところに流れている仏法上の「時」に立って、大聖人は、御本尊を確立遊ばされたのである。

また「時を待つ」といっても、それは、時をつくりつつ待つのであって、ただ手を拱いて待つのではない。

さらに、仏法の「時」は、決して固定化した一時点を指すのではなく、もっと、ダイナミックで、かつ大きいものである。したがって大聖人が「時を待つ可きのみ」と仰せられたのも、一つには末法万年尽未来際の広宣流布を望んで壮大なビジョンの上から仰せられたものと拝する。

むろん、ここに示された「時」とは「王法仏法に冥じ……末法濁悪の未来に移さん時」との、戒壇建立の時と条件を示された御文を受けて仰せられたものであるが、その御文じたいも、決して固定化された一時点を指すものではない以上、「時を待つ可きのみ」の「時」も、幅をもったものとして解釈すべきである。

かっての世界の有名な建造物も、それこそ何百年という歳月の年輪が刻まれて、人々の心の依処となっているものが少なくない。そうした大局観に立てば、大聖人の仏法が、七百年後の今日開花しつつあるのも、その間の深い底流があったればこそであると思う。ゆえに「時を待つ可きのみ」といわれたその時が今日すでに到来したともいえるし、さらに未来を望んで、新しい時代の開拓に努力しなくてはならない。大聖人の仏法は、一人一人の幸福を、生命の次元から、根本的に確立していくところから出発し、またそこに帰着する。たんに形式的に、戒壇を国立にしなければならないといった論議は、仏法の本質を見失った、本末転倒の考え方であるといわざるをえない。

さらに考えれば、大聖人が「時を待つ可きのみ」と仰せられた御聖意を拝するに、予め社会次元での形式を論ずることは、かえって一定の制約をつくることになり、むしろ、時代に応じて、最も適切な方法をとるべきであるとの余地を残されてこのように仰せられたとも考えられる。大聖人が、他の御書においても、一切戒壇の内容についてふれられていないのも、こうしたご配慮があったればこそではなかろうか。

以上のことを前提において現在は仏法上いかなる時であるかを決し、宗門緇素にこれを指南し給う方は、現法主上人にあらせられる。

今や現実に創価学会を中心とする信徒の大折伏は世界に及び、信徒数また夥しく強盛に信行に精進されている。此の時において法華講総講頭池田大作先生の発願による正本堂は、世界に冠たる大殿堂の雄姿を現わし、来る十月に完成の運びとなっている。かくて日達上人には、さる四月二十六日の教師指導会の席上において、更に四月二十八日の訓論において、正本堂の意義を明らかに発表あそばされた。すなわち

「正本堂は一期弘法抄並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり」

との御指南である。右文中「一期弘法抄、三大秘法抄の意義を含む-」とは、正本堂が広宣流布の暁が来たとき、本門寺の戒壇となるベき大殿堂である、という意味である。

従って正本堂は現在直ちに一期弘法抄、三大秘法抄に仰せの戒壇ではないが、将来その条件が整ったとき、本門寺の戒壇となる建物で、それを今建てるのであると、日達上人が明鑑あそばされ、示されたのが此の度の訓諭であろう。

さて右の訓諭の意を三大秘法抄の

「時を待つ可きのみ」

の御文に照すと

「一期弘法抄、三大秘法抄の意義が、完全に顕現するときは未来であるが、すでにその用意としての建物を建てるベき時が来ており、それが正本堂である」

という御意と思われる。

けだし王仏冥合の文意は、前にも述べたが冥合の二字に於て、時間的に相当の経過が考えられ、その間ある顕著な趣向的時点より、達成に至るまでの道程が当然存すべきである。換言すれば、流行の広布熾盛なる段階より、流溢の広布への道程の全体が王仏冥合の時と考えるべきである。

とすれば宗門未曾有の流行の広布の相顕著なる現在も、王仏冥合の時と云える。此の時に感じて法華講総講頭池田大作先生が大願主となって、正本堂を建立寄進され、日達上人猊下は今般これを未来における本門寺の戒壇たるべき大殿堂と、お示しになったのである。

もしいまだ建物建立の時も至らずと考え、三大秘法抄の前提条件も整わないとして、前もって戒壇を建てるのは「時を待つ可きのみ」の御制誡に背くという意見があるとすれば、それは不毛の論に過ぎない。時を待つ可きのみの文は、たんに建てるべからずという御制誡としてよりも、広布への大確信と共に時至るを待てとの御意であり、時至らば進んで建立にはげむべしという激励を言外に込められたものと拝される。そして三大秘法抄の戒壇の文全体にたいし、今迄述べ来たった拝し方において当然いえることは、現在戒壇建立の意義をもつ建物を建てるべき時であるという事である。否むしろ我々宗門僧俗の信心の熱情の表われとして、進んで全員一致し、事の戒壇を建立して広宣流布に邁進することこそ大切である。したがってこれに反対し誹謗する者は、猊下に反し、また三大秘法抄の文意にも背くものとなる。

さて次の「事の戒法と申すは是なり」について、

「事の戒法」の語自体としては、解釈上三つの意味が含まれている。

その第一は天台の迹門の理戒に対する本門の事の戒法という相対的な立場である。すなわち釈尊の一代仏教中、小乗権大乗では五戒十戒比丘の二百五十戒此丘尼の五百戒十重禁戒四十八軽戒等を説いて、行者の実際の行動を律するゆえに事戒という。これに対し迹門の円戒は、これらの事を捨て、専ら法華の理に意を注ぎ、観念することにより悟りを顕す。これいわゆる廃事存理の法華一乗戒である。三大秘法抄(全一〇二二)に

「この戒法立ちて後延暦寺の戒壇は逆門の理戒なれば益あるまじき処……」

と仰せあるごとく末法に入っては無益の戒なのである。

これにたいし末法の大聖人の仏法では、現実に吾々が不受余経一偈の誓いをもって下種妙法を受持し、その行体が即妙法蓮華経である故に事戒といわれるのである。しかるに末法の妙法とは御本尊であるから、御本尊を受持することが天台の理戒にたいし事の戒法となる。また御本尊安置の場所を戒壇というから、大聖人の仏法において戒法は即戒壇に当るのである。

第二の事の戒法(戒壇)とは、大聖人の一期弘通の本懐たる三秘惣在の本門戒壇の大御本尊であり、またその所住の処である。釈尊の法華経本迹二門が通じて迹門の理の一念三千であるに対し大聖人の仏法は寿量品文底の本門事の一念三千の法体である。故に大聖人の本懐の戒壇の大御本尊は三秘惣在の事の法体であるからその当体直ちに事の戒法であり、事の戒壇である。これに対し、僧俗信心の徒が、夫々の住所において書写の御本尊を受持する処、その義が事の戒壇に当るのである。

第三には正しく三秘抄の文のごとく、広宣流布して仏国土が顕現される処を事の戒法というのであり、先師は事相の戒壇ともいわれている。これは、要するに妙法受持の功徳が社会層の内面に広く深く浸透し、仏法の正義があらわれ、平和福祉社会に正法が顕現する。いわゆる王仏冥合の理念が現実に現われること、それが根本的な本門の金剛宝器戒の捨悪持善の相である。

ただし、一切の民衆に妙法の功徳が授与されるのは、本仏大聖人の仏法の根本法体たる、本門戒壇の大御本尊がまします故である。ややもすれば三大秘法抄の広大雄壮な御文に、眼を奪われ勝ちであるが、その文の裏底には戒壇の大御本尊が厳としておわしますことに注意すべきである。

この大御本尊は三大秘法惣在の御本尊であり、三大秘法抄(全一〇二三)の

「今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり」

の文の「事の三大事」に深く心を致すべきである。

故に日達上人の

「本門戒壇の大御本尊のおわします処、何処何方においても事の戒壇である」

という御指南が示される所以である。従って現在の奉安殿も事の戒壇であり、正本堂に戒壇の大御本尊がお出ましになれば、その処直ちに事の戒壇である。これが訓諭の

「現時における事の戒壇」の意味である。故に三大秘法抄の「戒壇……事の戒法」の文は、事相の事の戒壇を示されるものであり、「現時における事の戒壇」とは根源の戒壇を指すのである。

ここに至って日寛上人の戒壇論を学んだ人は、例えば文底秘沈抄の

「夫れ本門の戒壇に事有り義有り。所謂義の戒壇とは即ち是れ本門本尊所住の処、義の戒壇に当る故なり、乃至正しく事の戒壇とは、一閻浮提の人懺悔滅罪の処なり。但然るのみにあらず梵天帝釈も来下して蹋給うべき戒壇なり。秘法抄に云く云々

等の文を拝して、本尊所住の処は事の戒壇でなく、義の戒壇にあらざるやとの疑いを持つかも知れない。日寛上人は一般論的な説明の上から、一大秘法、三大秘法、六大秘法の開合において、戒壇の義と事を述べ給うたのである。ゆえにその広汎の著述中戒壇の法門として義と事に触れるところは多い。然るに「本門戒壇本尊」との名称を挙げて、そのおわしますところ(所住の処)を義の戒壇と説かせられる文は一か処も有しない。いな、むしろ本門戒壇の本尊の処義理の戒壇でないことを決し給うている。ここに深意のある所以を拝さなくてはならない。

以上の理由として更に一文を引こう。日寛上人の法華取要抄文段に

「当に知るべし、本門の戒壇に事有り理有り、理は謂く義理なり、是れ即ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず、其の名に迷う勿れ、故に亦義の戒壇と名づけんのみ。

初に義理の戒壇とは本門本尊所住の処は即ち是れ義理事の戒壇に当るなり、経に云く当に知るべし是の処即ち是れ道場とは是なり、天台云く仏其の中に住す即ち是れ塔の義等云々、故に当山は本門戒壇の霊地なり、亦復当に知るべし広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等皆嫡々書写の本尊を安置す、其の処皆是れ義理の戒壇なり、然りと雖も仍是れ枝流にして是れ根源に非ず、正に本門戒壇の本尊所住の処即ち是れ根源なり。

妙楽云く像未の四依仏法を弘宣す、化を受け教を稟く須く根源尋ぬべし、若し根源に迷うときは増上して真證に濫る等云々、今日本国中の諸宗諸門徒何ぞ根源を討ねざる耶浅間し々々々云々、宗祖云く根深ければ枝繁く源遠ければ流れ長し等云々、凡そ此の本尊は久遠元初の自受用の当体なり、豈根深く源遠きに非ずや、故に天台云く本極法身微妙深遠等云々。

次に正しく事の戒壇とは秘法抄十五卅一云く、王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に三の秘法を持ちて、有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁世の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か、時を待つ可きのみ、事の戒法と申すは是なり等云々、問う景勝の地とは何処を指すべきや、答う応に是れ富士山なるべし、故に富士山に於て之を建立すべきなり」(以下略)

と示されている。右文を大別すると「当に知るべし」より「義の戒壇と名けんのみ」までは戒壇に事と理とあるを示す文である。次に「初に義理の戒壇とは」より「微妙深遠等云々」までは義理の戒壇を明し、次に「正しく事の戒壇とは」より以降は事の戒壇を明されている。

そして問題は義理の戒壇を明す部分の

「広宣流布の時至れば」

以下の文にある。

まず「広宣流布の時」とは後に示される事の戒壇を相望して広布に約される言であるが、この場合は広布の条件を示す文ではない。(その理由は後述する)従って以下の文意は広宣流布の時至って始めて顕われる意味ではなく、それ以前の法相にも通ずるものである。さてそれはいかなる文意か。いわく、

多くの山寺に嫡々血脈付法の書写の本尊を安置するが、その処は皆是れ義理の戒壇である。然りと雖もなお枝流であって根源ではない。本門戒壇の本尊所住の処すなわち根源である。

と拝するのである。したがって各山各寺の本尊は義理の戒壇であり、枝流であるが、本門戒壇本尊は根源であるから義理の戒壇ではないとして、戒壇本尊の所住と、義理の戒壇とをはっきり区別された文と思われる。日寛上人の著書の各処に「本門の本尊所住の処義の戒壇」と示されるのは三秘六義に立て分けての説明であって、本門戒壇の本尊はその総体であるからである。

但し右の拝し方については、左の二点の疑難が残ると思われる。

その一は、先にものべたが「広宣流布の時至れば」とある以上、その時が来なければ決定しない筈である。いわゆるこの文意は未来広布時に約すべく、現在に約すべきではない、との難である。

しかしこれは文になずんで義に達しない解釈である。広布の時、とは一国全体の範囲に約されたのであって、その時であっても、山寺の本尊は枝流であって根源でない。(況んや現在も亦同様である。)との意を含んでいる。その証拠に以下の法相は明らかに、広布の時を待たねば現われないというものではない。広布以前に於ても、正宗門家の山寺に安置する本尊は義理の戒壇であり、また本門戒壇の本尊を根源と称することは変りないからである。

文底秘沈抄に

「根源とは何ぞや、謂く本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺の根源というなり」

とあり、根源は全く広布の以前以後にかかわらないのである。従ってこの文は再往現在に約して解釈すべきである。

その二は、この文を含めてその前後が義理の戒壇を明す部分に当るから、山寺等安置の嫡々書写の本尊が、義理の戒壇における枝流であるに対し、本門戒壇の本尊は義理の戒壇における根源であると解すべしという難である。それなら前文の「広宣流布の時」の文をどう拝するか。もしその考えによると、広宣流布の時本門戒壇本尊安置の処は義理の戒壇で、事の戒壇ではないという解釈になる。本門戒壇の大御本尊が広布の時も義理の戒壇だいうことは、次の事の戒壇の文と全く関係がないことになり、これは大変な誤りとなる。また事をあえて理というのであるから(事の戒法)の文に明らかに背反する。

次に根源の文字そのものが義理の戒壇に当ることは絶対にありえない。従ってこの「根源」の二字は「枝流」の二字を簡ぶと共に、「義理、戒壇」の四字をも簡んでいる。すなわちこの文は、本門戒壇本尊の所住の処は根源であって、義理の戒壇でないことを明されたのであり、その区別を示されたのである。

しからば何故に義理の戒壇の一連の文相中に、義の戒壇でない「根源」について示されたかといえば、これは一閻浮提の山寺等の義理の戒壇と対当関連して表示する意味があるから、その便宜に随われたのである。文になずんで意義を見失ってはならない。

以上述べたごとく、本門戒壇本尊所往し給う処は、日寛上人の通途の御説明による義ないし義理の戒壇には含まれないことが明らかとなった。この大御本尊の所住を日寛上人は根源と表現あそばされたが、今日達上人は現在の時に臨んで事の戒壇なりと御指南あそばしたのである。
これに対し諸寺諸山並びに檀信徒各位の奉安し守護する御本尊は、義の戒壇に当るのである。

かかる根本の事の戒壇ある故にこそ、その霊場を踏み奉るともがらは、無始の罪障忽ちに消滅し、妙法受持の功徳と確信を深めうるのである。かくて五十展転の随喜による折伏教化を盛んにして、遂に三大秘法抄の王仏冥合の事相を顕現するに至らんことは必然である。随って三大秘法抄の事相の事の戒壇は、根本の法体の事の戒壇まします放であることを見失ってはならない。これを忘れて事相の戒壇のみを論ずるものは、遠きを見て足元を忘れ、高きを見て先ず昇ることを忘れるに等しいのである。

訓諭の「現時における事の戒壇」が国立戒壇でないのは勿論であるが、三大秘法抄の事の戒壇もこれを国立と見ることは、仏法の如実の展開上誤りであり、前来論ずる通りである。

最後に

「三国並に一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王帝釈等も来下して蹋給うべき戒壇なり」

の文は、戒壇の意義内容および世界平和論を展開されたものである。本門戒壇は、日本、中国、インドの三国のみならず、全世界の民衆が、ここに集って、金剛宝器戒、防非止悪捨悪持善を誓い、過去遠々劫の宿命を転換し、そこから、世界平和、仏国土を現出していくとの御意と拝する。

大聖人の仏法は、一国のためのものではない。全世界の人々のためのものである。大事なことは、本門戒壇が何のために建てられるか、という意義内容である。この御文によれば本門戒壇は、全世界の人々の幸福と平和の実現のために建立すべきであり、全人類に開かれたものである。

もし「勅宣並に御教書」という当時の時代背景を考慮された御文に固執し、大聖人の仏法の本質、そして仏法の全体観、また時代観を見失い、戒壇の目的自体をも失うならば、いたずらに、大聖人の仏法を「死す」所行となろう。現代において、いかにしたら戒壇の意義を実現させることができるか、これが、大聖人の末弟が最む心をくだくべき課題なのである。

七、結  論

以上において国立戒壇の名称や意味するところを、各方面から検討を加えたのである。しかるに今日以降の宗門においてこの名称が必要であるという理由は全然発見出来ない。かえって宗門の前進を塞ぐものであると思われる。

国立戒壇の名称自体明治以後のものであり宗門古来の法義ではない。また法義の本質からいえば必要ないものであり、現在では非常な誤解を生ずる。とくに法主上人みずから以後この名称は用いないことを宣言あそばされている。

いまだにこの見解に執着しているものがあるとすれば、猊下の御指南を拝し、一刻も早く執見を捨てるべきである。そして輝かしい広宣流布への大道である正本堂の建立に向って異体同心の聖訓を体し、僧俗全体が一致団結して邁進することが肝要であろう。(完)

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