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第一次諌暁~第三次諌暁

日達上人の御本意を拝すれば、御遺命は破壊されていないという事が顕正会員の皆さんにもご理解いただけたのではないかと思います。

顕正会では正本堂問題に関して、第一次諌暁~第三次諌暁と三段階に区切ってその意義を述べております。

しかしながら、これは顕正会側の目線から見た記述であり、また現在の顕正会の状況(いまだ宗門に復帰できていないという現実)を言い訳するために事実を捻じ曲げて会員に教え込むものに他なりません。


ゆえにここに改めてこの三段階の事実はどうだったのかを見ていきたいと思います。

第一次諌暁

ここでの問題は正本堂が完成した時点で広宣流布は達成したとみて良いのか否かが最大の争点になりました。浅井さんが好んで引用する昭和42年正本堂発願式の高僧方の発言を見ても、当時は“正本堂完成=広宣流布達成”、“正本堂=御遺命の戒壇”という見方が宗門内に蔓延していたのは間違いありません。


これにNOと異議を唱えたのが妙信講であり、結果として、学会はまだ正本堂=御遺命の戒壇に執着していたものの、少なくとも御宗門においては「広宣流布は未来のことであり、正本堂を直ちに御遺命の戒壇とは見ない。」との見方が徹底されたのです。

第二次諌暁

ここでの問題は、“正本堂は広宣流布後に御遺命の戒壇となるか否か”が争点でありました。
換言すれば、“御遺命の戒壇を前もって建ててしまったのか?”ということです。当然のことながら、大聖人様の御教示を素直に拝するならば広宣流布を達成してから御遺命の戒壇建立とならなければいけません。


しかしながら、上記の如く“正本堂=御遺命の戒壇”と固執する学会は、直ちに御遺命の戒壇と呼べなくても、将来は正本堂が御遺命の戒壇に昇格するのだという考え方だけは死守したかったのです。そして昭和47年に訓諭が出され、その内容が学会の想いを後押しするように読めるものだったがゆえに妙信講は猛反発したのです。


結果としては、顕正会では一切発表されない“第二の確認書”を学会と取り交わし、抜いた刀を鞘に収めました。


が!、これはその確認書を見ても分かるように、何ら進展の無い内容なんですね…。正本堂は将来において御遺命の戒壇となり得る可能性を残したままだった…。


しかしながら浅井会長は妙信講内部には「勝った、勝った。」と宣伝し、未だ進展はないことを講員には隠したままだったのです。

ここで重要なのは、なにゆえ「抜いた刀を鞘に収めたのか?」ということだと思います。本来しかるべき理由があればこそ異議を申し立てたのであり、それが何ら解決もしないのに申し立てを引っ込めるなどという事があり得ますでしょうか?

そうなんです。

これは先日も申し上げたように日達上人の本意が「正本堂は御遺命の戒壇にあらず。」ということを再確認でき、いまだ学会は「広宣流布の暁には正本堂が御遺命の戒壇になる。」とのことに執着はしていたものの、それに関して在家同士で争うのはやめ、教導は御僧侶にお任せするという本来の姿勢に戻ることを浅井さんが決意したからに他ならないのです。

つまり、ここで私たちが認識しなければならないのは、

御宗門においては、この時点でもやはり御遺命の破壊と呼べるものは無かったということなのです。

第三次諌暁


その後妙信講は昭和48年5月に御開扉を受けようとして一旦御宗門に拒否されています。その後は沈黙の一年を経て(この間に本部会館建設、松本さんから御本尊を借り受ける等、将来の独立に備えた準備をしていたとも思えます。)再び登山申請をし、それを拒否されたことをもって大暴走とも思える攻撃をしかけ、最終的に昭和49年8月に講中解散処分を受け、10月には学会本部襲撃、そして11月には浅井さんはじめ33名の幹部が除名処分になりました。

所感


以上が一連の流れですが、第一次諌暁、並びに第二次諌暁については大義名分があると私には感じますが、第三次諌暁と称する最後の行動はどう贔屓目に見ても浅井さんの暴走であり、むしろ自ら進んで破門の道を選んだとしか言いようがありません。

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