昭和40年代前半の真実

それでは第1次諌暁から詳しく検証していきましょう。

広宣流布甚だ近し

昭和40年~昭和45年における宗内の状況としては、戦後の学会の折伏により急激に増大した信徒数をもって広宣流布も間近いとの雰囲気があったのは事実でありましょう。

ゆえに妙信講もまた正本堂の御供養に参加したわけであります。

このような先般の邪義破折班の破折書に対して浅井さんは

『顕正会が正本堂の供養に参加したのは事実である。だがそれは――正本堂を奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉る堂宇、すなわち「大御宝蔵」「大奉安殿」として供養に参加したのである。』

と言い訳しておりますが、当時の文書を見ればこれは事実とは違うことは分かります。

『今回総本山に於て御法主上人猊下の御思召によりまして、いよいよ意義重大なる正本堂が建立される事になります。戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。この宗門全体の重大な慶事に、妙信講も宗門の一翼として講中の全力を挙げ真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く事になりました。実に日蓮正宗の生命は大聖人出世の御本懐であらせられる戒旦の大御本尊様にましますのであります。この大御本尊は大聖人様より日興上人へ御付属せられて以来広布の時を待って歴代の御法主上人によって厳護せられて来たのであります。今までの七百年はひたすら時を待たれて御宝蔵の奥深く秘せられて参りました。唯そのスキマもる光を拝して一部の宿縁深厚なる信者が許されて猊下より内拝を賜っていたのであります。その御本尊様がいよいよ時を得て除々(ママ)に大衆の中に御出ましになる。御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い御思召により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります。その深い意義は凡下の我々のみだりに窺がう所に非ずとはいえ、容易ならぬ事であります。いよいよ大衆の中に人類の中にその御姿を除々(ママ)におあらわしになる。私共はこの猊下の御思召に同心し奉ってたとえ微力たりとも赤誠を奉りたい。先生は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか。

(富士昭和四十年七月号八頁)

この青字の部分は広宣流布以前の姿を表している表現です。一方で赤字は広宣流布後の表現なのです。

顕正会の方々にはピンと来ないかもしれませんが、これは平成25年の御大会式における浅井さんの講演を見ても理解できるかと思います

戒壇の大御本尊様国立戒壇にお出まし

「其父聞子、悉已得差、尋便来帰、咸使見之」(其の父、子悉く已に差ゆるを聞き、尋いで便ち来り帰り、咸く之に見えしむ)とは

日本国の一切衆生ことごとく恋慕渇仰するを見て、このとき、日蓮大聖人の御魂たる本門戒壇の大御本尊は、いよいよ国立戒壇にお出ましになり、

日本国の一切衆生にその御姿を見せて下さる――ということであります。

(顕正新聞平成25年11月15日号)

まぁ、この寿量品の解釈はトンチンカンな解釈ではあるが…、その破折は後日に譲るとして、今はこの赤字を注目していただきたい。まさに広宣流布後の表現がこれなのであります。大衆の中にその姿を表すという表現自体が広宣流布したということなのであり、上記緑の部分で多少の戸惑いが見えるにせよ、広宣流布甚だ近しという認識を浅井さんも持っていたということなのであります。

このような当時の背景があったことを前提にして検証していかなくては、真実の姿は見えてこないということです。

第一回正本堂建設委員会の御説法に関して

顕正会では少し前から「一念信解路線」とでも言いますか…、会員にあまり考えさせない方向へと誘引しているようですが、それに疑問も持たず未だに活動し続けている純粋なる顕正会員諸氏に私からも一つ問題をだしてみましょう。

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正本堂の御供養には妙信講も参加した。今日から見れば、なぜこれに参加したのか不思議に思う人もいようが、当時はまだ誑惑が顕著ではなかった。

少なくとも、管長猊下は一言も正本堂を御遺命の「事の戒壇」などとは云われず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることを強調し、「供養の誠を捧げよ」と、宗門の全僧侶・信徒に呼びかけておられたのである

もちろん妙信講は、正本堂を、国立戒壇建立まで戒壇の大御本尊様を秘蔵厳護し奉る堂宇、すなわち大御宝蔵・大奉安殿の意と理解して、御供養申し上げんとしたのである。

(中略)

この時の管長の説法(第一回正本堂建設委員会における御説法)は「大日蓮」誌等にも掲載されているが、極めて曖昧にして論旨不明瞭、奪って論ずれば支離滅裂の戒壇論である。しかしよくよく見れば、正本堂は奉安殿の延長の建物であることを結句述べているのである。

(中略)

この時点では細井管長は、少しも正本堂を御遺命の戒壇などとは云っていない。ただ、「大御本尊安置の堂宇なるゆえ、御供養せよ」と云われているだけなのである

(顕正会「試練と忍従」の歴史 53~54)

「だが、これより九ヶ月のちに開かれた第一回正本堂建設委員会における細井管長の説法により、正本堂は突如として“御遺命の戒壇”と、その意義が変更されたのであった。

(中略)

この伏線があって、翌年二月十六日の第一回正本堂建設委員会における説法となる。この細井管長の説法は、正本堂を御遺命の戒壇と決定する理由を述べた、最初で唯一の説法であるから、ここにその主要部分を上げる。」

(「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」20~21)

以上は両方とも浅井先生のお言葉でありますが、赤字と青字、どちらが浅井先生の本心なのでしょうか?

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これは非常に大事な問題です。日達上人が正本堂を御遺命の戒壇と断定したか否か、すなわち、御遺命破壊があったのか、それとも御遺命破壊など無かったのかが決定される分かれ道なのです。

浅井さんは、「この細井管長の説法は、正本堂を御遺命の戒壇と決定する理由を述べた、最初で唯一の説法である」と述べてますが、換言すればこの御説法以外には御遺命破壊のお言葉など存在しないということでもあります。

さて顕正会員の諸君、あなたならどう考えますか?

赤字が正しいと答えたなら、その前提で緑字を拝せば日達上人には一言も御遺命破壊のお言葉は存在しないということになる。

逆に青字が正しいと答えるならば、なぜ御遺命破壊だと分かっているのに妙信講は正本堂の御供養に参加したんだ!となる…。

う~~~~~~~~ん、悩ましいものですね…。

はたしてこれに明確に答えられる顕正会員は存在するのでしょうか?

第一回正本堂建設委員会における御指南全文

そもそも顕正会員の皆さんの一番のいけないところは原文にあたらないということなんです。浅井さんというフィルターをかけた上で、さらにその意のままに切り文された文章のみをもって判断しようとするから偏った見方になってしまうのですね。

原文をあたり、自分の頭で考えてこそ、物事の真実が見えてくるのです。

それでは第一回正本堂建設委員会の御指南です。

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第一回正本堂建設委員会

今回池田会長の意志により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います。

つきましては、皆さまの種々なご意見、建設の工程におけるご意見等うかがい、また各方面からの意見を取り入れたいと思っております。

そこで委員会を設けて、より多くの意見を入れて、歴史上未曽有なる正本堂の建設を行なっていきたいと考えております。

今回初めて、お集り願った委員会はこのメンバーで構成することになりました。

さて正本堂についていちばん重大な問題は、どの御本尊を安置申し上げるかということでございます。過日来いろいろなところで質問され、またこちらにも問い合わせがきておりますが、それに対して、私ははっきりした答えをせず、ばくぜんとしておいたのであります。

いよいよ、きょうこの委員会が開かれるにあたって、初めて私の考えを申し上げておきたいのであります。

大聖人より日興上人への二箇の相承に「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」とおおせでありますが、これはその根源において、戒壇建立が目的であることを示されたもので、広宣流布達成のための偉大なるご遺訓であります。

これについて一般の見解では、本門寺のなかに戒壇堂を設けることであると思っているが、これは間違いであります。

堂宇のなかのひとつに戒壇堂を設けるとか、あるいは大きな寺院のなかのひとつに戒壇堂を設けるというのは、小乗教等の戒律です。

小乗や迹門の戒壇では、そうでありましたが、末法の戒律は題目の信仰が、すなわち戒を受持することであります。よって大御本尊のおわします堂が、そのまま戒壇であります。したがって、大本門寺建立の戒も、戒壇の御本尊は特別な戒壇堂ではなく、本堂にご安置申し上げるべきであります。それゆえ、百六箇抄には「三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺本堂なり」と大聖人のお言葉が、はっきりご相伝あそばされております。

また同じ百六箇抄の付文に「日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」と、こう明らかにされておるのでございます。

したがって、その曼荼羅を現在では大石寺の本堂にご安置することが、もっともふさわしいと思うわけであります。戒壇の大御本尊は大聖人ご在世当時、また日興上人がいらした当時、身延山で本堂に安置されていたものであります。

また当時は大聖人のおいでになるところが本堂であり、ご入滅後は御本尊のおわしますところが本堂となってきたものであります。そして本堂で御本尊に信者が参拝したのであり、大聖人ご在世当時、身延へ参拝しにきたのは、信者だけですから、だれでも直接に御本尊を拝めたのです。したがって今日では、戒壇の御本尊を正本堂に安置申し上げ、これを参拝することが正しいことになります。

ただし末法の今日、まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます。 正本堂の建立地につきましては「大御本尊は客殿の奥深く安置する」という御相伝があります。

以前に前会長戸田先生とお話したさいに、正本堂は御影堂の後ろに建立したいということが話にのぼりまして、もしなんだったら地下道を造ってもいいではないかと、戸田先生がいわれております。その話は事実上具体化されませんでした。

本日池田先生は、客殿の裏の線と、御影堂の裏の線とが一致する点がある。そこに正本堂を建立したいといわれておりました。これは以上の意味からも、まことにけっこうなことであると思います。

客殿の前には勅使門がございます。今日勅使門と申しますと、誤解する人がおり、さまざまな批判をしていますが、これは国主といって、民主時代でありますので、その中心になる人が通る門のことです。民主主義の時代であっても、一国の中心人物はとうぜん決まるはずで、その人が開く門のことです。

その客殿の前の不開門=勅使門=それから客殿、その奥が正本堂と、理想的な建設となるのでございます。

それから北山にある棟札の件は、いわゆる「法華本門寺根源 垂迹堂 御影堂」の三堂の棟札のことがありますが、この形式は本宗ではとりません。

日精上人は家中抄で「国主御帰依の時は両堂を再建して額を本門寺と打つ」といわれておりますが、このことは日有上人のころより、御影堂の左(向かって左)に御本尊堂を造られたことが、文献にうかがえます。

さらにその後の本尊堂(旧御宝蔵)の改築の時と、日精上人の御影堂改築の時の移動により、現在は位置がずれているのでありますが、それからしても、日精上人の両堂建立のお考えも同じであることがわかります。

しかし、じっさいには将来もっと大きく考えて、この地に大正本堂ができたならば、天母山になんらかの建物を造ってもよいと思われます。

今回は要するに、この正本堂建立をめざして全力をそそぎ、僧俗一致して偉大な世界的建築となる正本堂を造っていただきたいと思うのでございます。

もしこの建立にあたって、少しでも傷がつくようなことがあれば、それは宗門あげての恥にもなりますので、全力をあげて建設にあたっていただきたいと念願いたします

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