「国立戒壇論の誤りについて」における解釈

それでは御宗門における「有徳王・覚徳比丘」の解釈をみていきたいと思いますが、その前に…、

先の記事で私が引用した「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」の一節に、

この御文を、阿部教学部長は次のように解釈する。

「正しい仏法者とこれを守護する世俗の力、又はその指導者が顕われる時をいう」(悪書Ⅰ)(原文ママ)

とありました。顕正会で言うところの「悪書Ⅰ」とは、「国立戒壇論の誤りについて」を指し、「悪書Ⅱ」とは「本門事の戒壇の本義」を指すことは顕正会員であれば誰でも知っている当たり前のことですよね?

ことに阿部教学部長がものした「国立戒壇論の誤りについて」(以下「悪書Ⅰ」という)と「本門事の戒壇の本義」(以下「悪書Ⅱ」という)の二書は、顕正会の諫暁に反論せんと、国立戒壇を否定して正本堂を正当化し、ほしいままに三大秘法抄の御聖文を曲会した前代未聞の悪書である。

(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む 121ページ)

このように浅井さんの著書でも言っております。

ということは、当然のことながら、「正しい仏法者とこれを守護する世俗の力、又はその指導者が顕われる時をいう」(悪書Ⅰ)というのは、「国立戒壇論の誤りについて」に記載されていることだと思うのですよ。通常の感覚の持ち主ならばね…。

けどね、この文章は「国立戒壇論の誤りについて」には一切ないのですよ!皆さん知ってました?????

実はこの文章は「本門事の戒壇の本義」、つまり浅井さんの言うところの「悪書Ⅱ」に書いてあるのです。

単なる浅井さんのミスなのか、それともあえてこのように書いたのかは浅井さん御本人にしか真意は分かりませんが、「冨士」に掲載された初版も、一般書籍として販売した「なぜ学会員は功徳を失ったか」も、最後に販売されたこの「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」も、全てこの間違いのまま四半世紀も過ぎております。

その間多くの顕正会員さんがこの文章に目を通したはずなのですが、いまだにその指摘が無い…。これひとえに如何に顕正会員さんがこの二書の原文に触れていないかの確たる証拠でもありましょう。

この二書は執筆者である御隠尊日顕上人猊下も一部の「言い過ぎやはみ出し」をお認めになっておられますが、その大部分は学会と妙信講の戒壇に対する誤った認識を訂正せしむる内容になっております。

この二書をとことん読み込むことで御遺命の戒壇とは何なのか?という全体像が見えてまいります。まだ全文を読まれていない顕正会員の方々には是非とも読んでいただきたいものです。

ただし、上記にもありますように「言い過ぎ、はみ出し」部分を認識した上で読まなければなりませんから、これらは日蓮正宗の御住職様の指導の下に読むべきだと思います。ゆえに私もこの二書についてはネットに公開いたしません。

ですから心ある顕正会員の方々は御縁ある法華講員、ないし日蓮正宗の御僧侶にお尋ねくださいませ。それらの御縁の全くない方は私にご連絡頂ければ対処させて頂きます。

それでは本題に行ってみましょう。

「国立戒壇の誤りについて」の解釈

先にも申しました通り、浅井さんが引用したのは「本門事の戒壇の本義」(悪書Ⅱ)であり、「国立戒壇論の誤りについて」(悪書Ⅰ)ではありません。それでは「国立戒壇論の誤りについて」ではどのように書いてあるかをみてみましょう。

「有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」

とは、涅槃経金剛身品に出る仏法守護の因縁である。無量劫の昔、歓喜増益如来の滅後、破戒の比丘等が正法を持つ覚徳比丘を害せんとしたとき、有徳王の擁護によって難を逃れることが出来た。王は敵と斗い全身に庇を負って命を失ったが、その功徳により阿しゅく仏の国に生まれその仏の第一の弟子となった。この有徳王とは釈迦仏であり、正法を守る果報によって、今日法身不可壊の身を成就したのであると説かれてある。

この文を引き給う趣旨を拝するに、正法を立てることは迫害反対があってまことに難事である。すなわち末法において権実雑乱して人々は如来教法の帰趨に迷い、正法に対する怨嫉盛んなるとき、身命を惜しまずこれら一切の障擬を打ち破って正法を守護確立し、弘通を図ることあるを、大聖人はかねて鑑みさせ給うたのである。

有徳王、覚徳比丘は経典の事例であって、これを説いた釈尊の己心に存することである。従って末法の我々も信心の内感の上に考えるべきことであろう。この有徳王、覚徳比丘の関係は、同じく涅槃経に「内に智慧の弟子有って甚深の義を解り、外に清浄の檀越有って仏法を久住せしむ」とあるように、僧俗一致して異体同心に広宣流布に進んでいくことをいうのである。

「末法濁悪の未来に移さん時」とあるごとく、決して、戒壇は、安穏と平和のうちにつくられるものではない。むしろ濁乱の世に、苦悩の民衆を救うために、令法久住、広宣流布を願う信心強き人々によって建立されていくのである。したがって、この文の意は、広布完成のみを示すものと拝するよりも、完成にいたる因の道程をも含ませられたものと拝すべきである。

以上「戒壇とは……移さん時」の文全体が戒壇建立の時を決する条件を示された御文であるが、なかでも「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」とは、総じて王仏冥合を“法”の面からその姿を示し、「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」というのは “人”の面からその様相を述ベ、さらに「有徳王、覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」というのは、戒壇建立の時の世相を述べられると共に、我々の実践を示されている。

(国立戒壇論の誤りについて 56~57ページ)

どうでしょうか?マーカーしてある部分が重要なわけですが、たしかに浅井さんも仏法守護の為には身命も惜しまない機運がみなぎった時と定義付けしておりますが、それだけではないのですよね、赤字で示した部分「内護と外護の自身の役割を認識した僧俗が異体同心して仏法守護に立つとき」というのがこの部分の解釈には入っているのですよ。

浅井さんは意図的にそれを無視してしまっている…。

ここってすごく大事なところだと私は思うんですよね。

「本門事の戒壇の本義」の解釈

次に「本門事の戒壇の本義」の解釈についてですが、この書では殆どこの部分には解説を割いておりません。浅井さんが引用した部分のみです。

ただし、上記赤字の「護法」の観点から言えば一歩踏み込んだ内容になっていますね。

「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」

とは正しい仏法者とこれを守護する世俗の力、又はその指導者が顕われる時をいう。

この仏法者とは伝持付嘱・弘宣付嘱を受けられた方をいい、「これを守護する世俗の力ないし指導者」とは守護付嘱を受けた者をいうわけです。

この関係性は浅井さんが揶揄するために引用した昭和41年の御隠尊猊下のお言葉によって、よりハッキリと認識できるのです。それではその原文を見ていきましょう。

昭和41年御隠尊猊下のお言葉

この祝辞は学会本部総会におけるものであり、そこには学会に対するリップサービスも含まれていると私は感じます。しかしながら、ここで引用された「有徳王・覚徳比丘」の解釈は日蓮正宗本来の考え方を実に明確に示しておられるものと思います。

後半部分のリップサービスはどうでもよいのですが、一応全文掲載してみます。

第二十九回学会本部総会

教学部長 阿部信雄師祝辞

本日は会長池田先生の御就任満六年に当り意義深い総会を盛大に開催せられまして誠におめでとうございました。

世界全人類を導くべき最高の正しい仏法のあり方は、かなえの足のごとく、三つの要素によって確立するものと思います。

 すなわち、よき法、よき師、よき檀那であります。

古今東西両洋の哲学宗教を通じて最もすぐれたものは仏教であります。

なんとなれば、宇宙人生の原因結果の法則は勿論、善悪、幸不幸等の実相を、過去、現在、未来の三世をつらぬいて完全に説きあかしておるからであります。

その仏教、いわゆる釈尊五十年の説法は、天台がその教判に於て、一切の異論異説を整理いたしました結果、ただ法華経に窮る事を証明いたしました。

さらに、この法華経の指し示すところ、その極意は何かと言えば、末法日本国に木仏日蓮大聖人の三大秘法が出現し、広宣流布する事であります。

そして、この日蓮大聖人の仏法は、御開山日興上人、日日上人と一器の水を一器にうつし遊ばされ、現在御当代日達上人が世界でただご一人のみ、この仏法をお持ち遊ばされております。唯授一人血脈の大御本尊様、法主上人おわします所、ここに世界人類救済の一大基盤があると確信するものであります。

つぎに大聖人様は広宣流布の条件として、三大秘法抄に「有徳王・覚徳比丘の其のむかしを末法濁悪の未来に移さん時乃至時を待つ可きのみ」 (書一〇二二頁)と予言されました。

 この御文は広宣流布の時、在家の中より身命(いのち)かけて仏法を守る指導者が必ずお出になる事を示されたものと拝されます。

その広宣流布の時とは、まさに今日、創価学会の出現により、又その大指導者たる会長池田先生が身をもって示される、法主上入猊下と宗門に対する不惜身命の御守護をもって、いよいよ、その時が到来した事をだんじてはばからぬものでございます。

現猊下は、去る昭和三十元年四月、総本山大客殿落成慶祝法要の砌に、池田先生を全宗門信徒のたばねである法華講総講頭に御委嘱になりました。
この御両人のお示しになる僧俗一致の姿こそ実に広宣流布大願成就の根幹であると確信いたします。

ここに皆様方並びに我々僧侶一同、すなわち宗門の全体におきましても、ますます僧俗一致の結束を固め、あらゆる魔の障害を排除し全人類救済、広布の達成に、また四年後の正本堂建設に全力をあげて邁進いたしましょう。

以上をもって御祝辞といたします。

(大日蓮 昭和41年6月号 15~16ページ)

このお言葉を拝すると「有徳王・覚徳比丘」の御文は浅井さんが言うような「命がけで法を護る。」ということだけではなく、そこには伝持付嘱・弘宣付嘱を受けられている御法主上人猊下と守護付嘱を受けられている国主の関係性にまで言及されているわけです。

ここで「池田さんが国主か?」

という疑問はとりあえずスルーしておきまして、顕正会ではこの「良き師」、「伝持付嘱・弘宣付嘱」というのを完全に無視してしまっているということに気づいて頂きたいのです。

大聖人様の仏法というのは御僧侶がいてこそナンボであって、それを省いてしまったら大聖人様の仏法の真価は発揮できないのですよ。

そしてね、これを素直に実践してみた時、そこには驚くべき現証が起きてくるのです…。

これについては次回書かせていただきますね。

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