第五十三回 全国教師講習会の砌 (後)

第五十三回 全国教師講習会の砌(後編) 平成16年8月26日

第五十三回全国教師講習会の砌

御法主日顕上人猊下御講義(後)

平成十六年八月二十六日
於 総本山大講堂

そこで少し話を戻して、昭和四十一年に池田が、

「本門の戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上、達成される」(日蓮大聖人御書十大部講義一―一〇五七㌻)

と言っているが、先程までは「実質的」と言っていた言葉が、ここで初めて「事実上」という言葉に変わっており、これからあとはずっと「事実上」ということになるのです。「実質的」ということの意味よりも、「事実」ということのほうが、なお強い意味があると思って使ったのでしょう。その意味が、この四十一年七月の池田の言葉から出てきておるのであります。

さらに四十二年一月にも、

「事実上の本門戒壇である正本堂の起工式」(大白蓮華・昭和四二年一月号一四㌻)と言っている。そして、一月二日に出されたものには、学会の教学部が「正本堂建立により、三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられ、これが化儀の広布の実現である」というようなことを言っているのですが、これもまた言い過ぎた言葉です。この「三大秘法抄に予言されたとおりの相貌」というのは事相なのであります。先程も言いましたように、「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持つ」というのが事相であるにもかかわらず、正本堂がその相貌を具えた戒壇であると言い、また、それによって化儀の広布の実現であると、はっきり言いきってしまっておるのです。

また昭和四十二年五月三日にも池田が、

「正本堂は(中略)事実上の本門戒壇」(大日蓮・昭和四二年六月号一三㌻)

であると言い、また、

「正本堂完成により、三大秘法が、ここにいちおう、成就したものといえる」
(同一七㌻)

とも言っている。「いちおう」ならば「成就」などと、くだらないことを言わないほうがいのだが、ずるいことに「いちおう、成就した」などと言っておるのです。

また池田は、日達上人のお言葉をとっこに取って、六月一日に、

「先日、猊下は『宗門はまさしく広宣流布だよ』と、満足そうなお顔で申されました」
(同・昭和四二年七月号一二㌻)

ということをずけずけと言って、日達上人のせいにしている。そのあとも、妙信講と学会との論議のような形においては、あのころ観妙院日慈上人が総監であり、私が教学部長で、この二人がその間に入って、さんざん立ち会ったことがあるのです。その時でも、学会はずるいことに、「日達上人がおっしゃっているのだ」などと言って、とにかく猊下を障壁にする癖がある。これは本当にそうです。そういうように、「猊下と言えば文句は言えないだろう」というのが学会の考え方だったのです。これもまた、激励と慰撫の大きなお心からのお言葉を、とっこに取り上げて、日達上人が「宗門はまさしく広宣流布だ」とおっしゃった、などと言っているわけであります。

次に、七月十一日には日達上人も、「全民衆による戒壇の建立」という趣旨のことをおっしゃっている。これは、現在の憲法下ですから当然のお言葉でしょう。そして九月十二日

「成仏の根本である本門の戒壇が建立せられる」(同・昭和四三年二月号一一㌻)

ということをおっしゃっております。

これは「成仏の根本」ということの上からの「本門の戒壇」との仰せですが、戒壇という意味は、その前やあとに付く言葉によって色々に解釈できるわけです。「本当の御遺命の戒壇」「最終の本門戒壇」と言う場合とは意味が違うでしょう。我々日蓮正宗は迹門ではなく、本門の教義なのですから、「本門の戒壇」と言っても、それが直ちに『三大秘法抄』『一期弘法抄』に示される御遺命の最終戒壇だということではない意味もあります。おそらく日達上人は、そのような意味において仰せになっていると拝するのであります。

ただ、四十二年十月一日に、学会の教学部長であった小平芳平が、「正本堂は事実上の本門戒壇であり、『三大秘法抄』における戒壇の全文が事実となって現れる」という趣旨のことを言っている。そして「あとは、不開門を開くまで」、つまり儀式はもう少しあとだということでごまかしているのです。この「不開門を開く」ということは池田も盛んに言っていたが、「正本堂は戒壇そのものであり、ただ儀式を行うまでは、もう少し期間があるのだ」というような意味で、なんとかうまくごまかしていたのであります。ともかく学会は、本当に汚くて、ずるいのです。

ところが四十二年十一月、これは「載せるから何か書け」と言われたのです。それで高木伝道房、私、藤本栄道房、椎名法英房、大村寿顕房、菅野慈雲房等が書いているのですけれども、これが当時の空気に飲まれてしまっていて、だいたいそういう流れの上から発言をしてしまっているのてす。空気というものは恐ろしいものですが、あのころはそういうものが色々とあったのです。それから今の富士学林長の八木信螢房も、

「正本堂建立の意義は、真の世界平和を建立する根本道場である(取意)」
(大白蓮華・昭和四三年九月号九九㌻)

と、これはなかなか、あのころとしてはうまいことを、言っていると思います。

次は、四十三年十月十二日の正本堂着工大法要における池田大作の言葉です。この大法要において、池田が、

「三大秘法抄のご遺命にいわく」(大日蓮・昭和四三年一一月号巻頭グラビア)として、

「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり。三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等の来下して踏み給ふべき戒壇なり」(御書一五九五㌻)

の御文を全部挙げて、

「この法華本門の戒壇たる正本堂の着工大法要」

(大日蓮・昭和四三年一一月号巻頭グラビア)

ということを言っている。ですから、正本堂がまさしく『三大秘法抄』に示される戒壇だと言っているのです。これは私が平成三年にも指摘したところですが、池田本人がこれだけ言っているのだから、和泉覚達に文書を作らせて対応させるのではなく、反省するなら本人がはっきりすべきだということを言ったのである。あれは学会問題が起きたての時だけれども、そういうことが色々とありました。

そこで日達上人は、正本堂は総講頭である池田が発願主になっていますから、それにより本門戒壇がまさに立たんとしている、ということを言われているけれども、そこまでのことなのです。さらに妙信講に対しては「国立戒壇とか国教というようなことは御書に全くない」との旨を仰せであります。

ここでまた、浅井が昭和四十五年三月二十五日に、宗務院に対して、第一回正本堂建設委員会での日達上人のお言葉について、

「いま猊下の御説法をつぶさに拝し奉るに『事の戒壇』なる文字はもとより、その義・意すら見られない。いやむしろ、よくよく拝せば否定すらしておられる」
(冨士・昭和五〇年三月号三〇㌻)

と言い、したがって「当局は正本堂を事の戒壇と承認するや否や」ということを、言うのであります。

そこで、四十五年四月六日の虫払大法会における『三大秘法抄』の戒壇についての御説法があるのですが、これは日達上人の御本意をお示しになったものだと、私は思うのであります。虫払大法会の説法ですから長い御説法でしたけれども、趣意は「『三大秘法抄』の戒壇は御本仏のお言葉であるから、私は未来の大理想として信じ奉る」ということをおっしゃっておるのです。要するに「未来の大理想」だから、御遺命の戒壇は未来のことだということです。

そこで、これは先程言い損ねてしまいましたが、正本堂がそのものずばりの御遺命の戒壇か、そうではないのかということが一つの問題なのです。学会は妙信講の攻撃をうまくかわすため、今はまだ、そうではないと言うのです。ただ、このところがおもしろいのですが、今はそうではないけれども、将来その時が来れば、その建物になる。つまり結局のところ、正本堂自体は将来において『三大秘法抄』『一期弘法抄』の建物となるということです。それ以前には、正本堂はまさに『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇そのものずばりでなければならないと、学会の教学部も池田自身も言っていたのですが、この時点で学会は一往、そこまでは譲ったのです。だが、色々な面で引っ込んではきたけれども、最後の不開門を開く時、つまり儀式の時とか、あるいは本門寺に改称する時には、やはり正本堂自体が『一期弘法抄』の戒壇になる建物であるということは絶対に譲れない、というのが学会の方針だったのであります。けれども一往、今はまだ、その意義を含んでおるというような在り方なのです。

しかし、私どもはそうではなく、日達上人の御説法を拝すると、未来の大理想として信じ奉るということだから、あくまで未来なのです。つまり『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇は名実ともに未来であるが故に、正本堂はそうではないというのが御説法の内容であります。したがって、たしかに広布の相から言って『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を含むということはあっても、その建物がそのまま『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇となるのは未来のことで、確定的ではないという意味で宗門は考えたいと思っていたし、また日達上人もそのようなお考えであらせられたと拝するのであります。その辺のところが非常に微妙だったのです。

ところが、実はこの前から浅井の横槍はずっとあったのだが、四十五年四月に、谷口善太郎という共産党の代議士が衆議院で行った質問について、創価学会が照会を受けるということがありました。これは要するに、「国立戒壇ということを言っているけれども、これははたして憲法の上から言ってどうなのだ」というようなことの質問です。それに対して学会が言ったのが、次の三つであります。一つは「本門戒壇は、民衆のなかに仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建つ」ということ。次は「現在建設中の正本堂は昭和四十七年十月十二日に完成予定で、これが本門戒壇になる」。三番目に「一時、本門戒壇を国立戒壇と称したことがあるが、その本意は一の如くである」と、古来の考え方として国立ということがあったけれども、それを否定した形において、民衆によって建立することになったのであると言うのです。だから、さらに「これはあくまで宗門の事業であり、国家権力とは無関係である」と述べ、御遺命の戒壇という意義はそこにあって、「国立」という在り方は大きな間違いだということを答えたのです。しかし、これは浅井の考え方とは違っているから、浅井は「国立戒壇を否定した、たいへんな間違いだ」ということを言っているわけだが、宗門のほうは日達上人が「今後は国立戒壇という名称は使用しない」ということをおっしゃったのであります。

そこで日達上人が四十五年四月二十二日の時局懇談会および四月二十七日の教師補任式において、正本堂はまだ出来ていなかったけれども、その定義についておっしゃったのであります。これは、御本尊が事であるから、御本尊のまします所はいずこなりとも、場所に関わらず事の戒壇であるということを御指南になったのです。

我々は事の戒壇というと、やはり『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇であると思い込んでいたところがありました。そこで、日達上人から戒壇の大御本尊のまします所が事の戒壇だという御指南があったので、そのことについて、私と観妙院日慈上人が日達上人のところへお伺いに行ったことがあるのです。するとその時に、「これは御相伝である」ということの上から、特に「御戒壇説法」をお示しになったのであります。すなわち「御戒壇説法」において、

「本門戒壇建立の勝地は当地富士山なること疑いなし。また、その本堂に安置し奉る大御本尊は今、眼前にましますことなれば、この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土にして、もしこの霊場に詣でん輩は無始の罪障、速やかに消滅し云々」

ということがあるのです。そして、もう一つには日寛上人の『法華取要抄文段』の、

「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段五四三㌻)

という御文を引かれておりました。そこでは「根源」ということは言われなかったけれども、そういう意味から事の戒壇ということを示されたのであります。これらは無論、日達上人がお書きになった文ではなく、別の御先師がお書きになったもので、それを当時、総監であった観妙院日慈上人と私に見せられて、日達上人は「こういうような文からいって、事の戒壇と言ってもよいのだ」と仰せになったのです。だから、御戒壇様のまします所が事の戒壇という意味になるのであります。

そうすると、日寛上人が仰せの『三大秘法抄』の「事の戒壇」と、御戒壇様まします所の「事の戒壇」の二つがあることになり、紛らわしいという意味も出てきます。実際、浅井もそういうことを、そのあとにおいて盛んに言っていたわけです。しかし、日達上人は「現時における事の戒壇」というように仰せられているのです。つまり、『三大秘法抄』の戒壇は未来における事の戒壇であり、現時における事の戒壇は御戒壇様がおわします所で、そこに大勢の人が参詣し、真剣な信心・唱題・折伏によって即身成仏の大きな功徳を得ることが、そのまま事の戒壇であるという意味の御指南もありました。このほかにも色々あったのですが、簡単に言えば、こういうお話があったのです。

さて、四十七年二月には浅井が「事の戒壇」についての宗門の見解を変えるよう要求を出してきたのです。一つは「正本堂は両抄の御遺命の事の戒壇ではない」というのてすが、これは以前から今日まで御戒壇様のまします所、事の戒壇という御指南が本筋であります。次が「正本堂は奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まて、大御本尊を厳護する堂宇である」ということです。さらに「御遺命の事の戒壇とは、一国広布の暁、富士山天母ヶ原に建立される国立戒壇である」と主張するのです。この間ずっと、日達上人が宗門の公式決定として「国立」ということは言わないと言われておるのです。にもかかわらず、あくまでこれに固執しているのであります。

そこで四十七年四月二十八日に、日達上人は妙信講への色々な回答等の意味も含めて、正本堂の全面的な定義をお示しになったのであります。その「訓諭」には、

「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」
(大日蓮・昭和四七年六月号ニ㌻)

ということを仰せであります。

このなかの「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」というところが、また一つの解釈があるのです。「たるべき」ということは、そうであるべきということにおいては、現在はその意義を含んでいる建物だけれども、広布の時にはその建物がそのまま『一期弘法抄』の本門寺の戒壇になるのだという解釈と、そのようになるべく願望しておるところの意味との二つの解釈があるのです。つまり「本門寺の戒壇たるべく願うけれども、未来のことは判らない」という意味が、そこには含まれておるということなのです。この二つがあって、それはどちらとも言えないという不定の意味で、こういうようなことをおっしゃったのではないかと思うのであります。

それから、とにかく四十七年中は浅井の問題がずっと起こってきて、昭和四十九年には学会本部へ襲撃をかけたり、そのほか暴力事件を起こすような話があったり、さらに浅井の問題に関して日達上人の御指南を受けるという意味があったりと、とにかく色々なことがありました。それらのことは到底、一概には言えないし、時間もありませんから申しませんが、これらの問題が終わったあと、特に四十九年ごろのことだが、創価学会が色々な意味で宗門を実質的に支配しようとしたことがありました。正本堂も造ってやったし、みんな我々がやったではないかというような考え方から、宗門をことごとく支配しようとしたという不逞な心根が、たしかにあったわけです。

当時の大幹部に山崎正友氏と八尋がおり、山崎氏は当時、池田の懐刀でしたが、まもなく学会と別れたあと色々ないきさつがあったけれども、今は宗門の信徒となり、学会破折の急先鋒に立ってやっているのであります。しかし、八尋は今も学会の弁護士としてやっています。ともかく、昭和四十九年四月十二日の山崎・八尋の文書があって、そこに、

「本山の問題については、ほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて、二とおり考えられます。一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから、学会に火の粉がふりかからない範囲で、つまり、向う三年間の安全確保をはかり、その間、学会との関係ではいつでも清算できるようにしておくという方法であり、いま一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて、背後を固めるという方法です(中略)本山、正宗は、党や大学、あるいは民音以上に、学会にとっては存在価値のある外郭と思われ」

と言っているのです。本来、学会は総本山を根本とし、中心としての信心をする信徒団体ではないか。それが創価学会が中心であり、民音や公明党が創価学会を守るように、宗門も創価学会を守る存在価値があると言うのだから、これは実に逆さま極まる愚かな考え方でしょう。つまり「学会主、宗門従」ということが、ここにはっきり出ているのであります。そして、

「そのための布石としては、(1)本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配 (2)財政面の支配(学会依存度を高める)」

と、つまり「学会に袖を振られたら宗門はお手上げだから、何かあったら宗門を助けてください」というような体制を作らせておこうというのです。

これは私の時に実際にあったのですが、私が登座してしばらくした時に、平野(当時、創価学会登山部長)という者が何度も目通りに来て、「近ごろ、どうもみんなお山に来る熱意がなくなっている」とか、妙なことをごちゃごちゃと話すのです。結局、あとで判ったことだが、あの男は「猊下に創価学会が有り難いということを知らせるために、そのような話をしたのだ」ということを、あとで言っていたらしいのです。また「場合によっては登山もやめようという考えがある」とか、「みんな池田先生を大切にしないと大変ですよ」

という趣意も、たしかに私の所に来て言っていた。このことからも、このような宗門支配を目指す内容がよく解るのであります。

また次に、

「(3)渉外面の支配 (4)信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立等) (5)基地、典礼の執行権の委譲 (6)総代による末寺支配が必要です」

とあります。末寺の総代のほとんどが学会員であったことは、みんな承知していると思います。ある年代から最近は法華講員に総代を替えたけれども、ほとんどが学会の総代の時代がありました。ともかく、そういうようなことを言っておって、さらに、

「今回のとこは(1)(2)(3)を確立し更に(4)まで確立てきるチャンスではあります。いずれにせよ、先生の高度の判断によって決せられるべきと思います」

というようなことを言っているわけです。

だから日達上人は、四十九年四月二十五日の法華講連合会春季総登山会で、

「最近ある所では、新らしい本仏が出来たようなことを宣伝しておるということを薄々聞きました。大変に間違ったことであります」(蓮華・昭和四九年五月号三五㌻)

とおっしゃったのであります。この「ある所では、新らしい本仏が出来た」というのは池田のことです。そして、

「もしそうならば正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません。そういう間違った教義をする人があるならば、法華講の人は身を以てくい止めて頂きたい。これが法華講の使命と心得て頂きたい。法華講は実に日蓮正宗を護る所の人々である。日蓮正宗を心から信ずる所の人々であります。大聖人様以外に本仏があるなどと言ったらば、これは大変なことである。どうかそういうことを耳にしたならば、どうぞ『それは間違っておる』ということを言って頂きたい。どうか皆さんは、この信仰の根本を間違わないで、信心に励んで頂きたい。広宣流布はしなければならん、けれども教義の間違った広宣流布をしたら大変であります」(同㌻)

という有名なお言葉があったのであります。このことは本当にそう思います。

ところが、最近でも「日蓮大聖人に続く法華経の行者が池田先生だ」ということを言っているのであります。言い方は色々あるけれども、これはまさしく同じことです。

「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書一七七三㌻)

と『御義口伝』にあるように、法華経の行者とは本尊の意味であって、大聖人様お一人しかおられないのであります。それなのに、「池田が大聖人に続く法華経の行者である」ということを言っているのであり、そういうところに創価学会の邪悪な考え方があるのです。

また、日達上人とお話しになったことを北条浩が記録して、油田大作に報告した文書があります。要するに「猊下の話は大変ひどいもので、これが猊下かと疑いたくなるほどである。また信心そのものを疑いたくなるほどひどいものでした」ということが記録にあるのですが、これは何も、日達上人は大作の犯した謗法やおかしなことをきちんとおっしゃったに過ぎないのです。それを池田にはこのように報告しているのです。これについてはあまりにひどいから全部を読むのはやめますが、そういう在り方もあったのであります。

それから、もう僧侶はいらないということを彼らが言い出したことがあるが、それについては日達上人が、四十九年五月三十一日の寺族同心会の時に、

「今、我々出家しておる僧侶がいらないで廃止すれば、次の和合僧団の僧侶が出来る事になってしまう。何も変りはない、ただ現実を破壊せんが為にこれを云うのである」(蓮華・昭和四九年六月号八㌻)

とおっしゃっている。つまり学会が現実を破壊せんがために僧侶がいらないということを言っておるということです。さらに続いて、

「大いに我々も考えて一層努力し、大聖人の仏法を本当に純粋に護っていかなければならない。謗法厳禁という事を考えなければならない(中略)ただ大きくなればいい、大石寺はいろいろの生活が楽であればいいというような考えで皆いろいろの今までの法門のあり方、あるいは布教のあり方を忘れるという様な事があるならば、私は、どこまでも一人でもいいから本山を護りたいと思います。皆様も、大いにしっかりと考えてもらいたい。富士宮のこれは信者ではないけれども、ある有名な人は大石寺は前々から言う通りに、軒を貸して母屋を取られる様な事があるならば、大石寺の恥だけではない、富士宮の恥だという事を放言していたという事です(中略)大いに反省し、大いに我々のいくべき道を考え、ただ表面に服従して、ただ大きくなる事を望まないでもっとよく信心をしていただきたい」(同㌻)

ということを、ここにおっしゃっておるのであります。

次が、四十九年六月十八日の富士学林研究科開講式の時ですが、

「この辺でも、最近、人間革命が御書だということを盛んに言われてきております。私の耳にもしばしば入ってきています。又、誰れが本仏であるという言葉も、この近所で聞かれるのであって、私は非常に憂慮しています(中略)日蓮正宗の教義が、一閻浮提に布衍していってこそ、広宣流布であるべきであります。日蓮正宗の教義でないものが、一閻浮提に広がっても、それは、広宣流布とは言えないのであります。皆様の時に、もし、日蓮正宗の教義でなし、大聖人の教義でないものが、世界に広がったからといって、決して、我々は喜ぶべきでないし、大聖人が、お喜びになるとは思いません。むしろ、正宗の精神が、なくなってしまった、消滅してしまったということになるので、非常に悲しいことであり、我々の責任は重大であります(中略)どうか、一時の富貴を喜ばないで、大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたいと思います」(大日蓮・昭和四九年八月号一九㌻)

ということをおっしゃっております。学会は本当に『人間革命』が御書だと言っていましたが、考えてみればひどい話です。また、学会がたくさん来ていれば、葬式や法事などの形で多少の御供養が入るでしょう。しかし、そのようなことよりも「大聖人の根本の仏法をどこまでも貫いて頂きたい」とおっしゃっておるのであります。

しかし日達上人御自身の上からは、昭和五十四年五月三日に、学会を最終的には許された御説法がありました。そこでもって学会を許され、そのすぐ二カ月後に御遷化あそばされたのです。そして、そのあとを私がお受けしたのですから、私としてはやはり日達上人が締め括られたところから出発しなければならなかったのです。だから、私はどこまでもその立場を尊重し、そこから出発したつもりであります。正信会の莫迦どもは「私の言うことがしょっちゅうぐるぐる変わっている」とか、「今になって池田の悪口を言っている」などと言っているけれども、私はその時その時で正しい在り方を常に考えてきたつもりであります。

これはまた別のことだが、池田大作は浅井の抗議や色々な問題があって、結局、正本堂が御遺命の戒壇であると正面を切ってはっきりとは言えなくなったのです。どうしてもうまくいかないから、そこで最後に考えたことが、正本堂建立の記念の御本尊をお願いして、その裏書きを日達上人に書かせようということであります。それはどういうことかと言いますと、池田は「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法抄に御遺命の事の戒壇為ることの証明の本尊也」と日達上人に書かせようとしたのです。ここからも、いかに大作が御遺命の戒壇ということに執着していたかということが解ります。日達上人がこういうことをお書きになれば、「池田大作が大聖人様の御遺命の戒壇をお造りしたのであり、それを時の御法主がきちんと証明されている」ということが万代にわたって残る。そういうようにしたかったのです。

そこで日達上人は昭和四十九年九月二十日に、賞与御本尊の裏に「此の御本尊は正本堂が正しく三大秘法妙に御遺命の事の戒壇に準じて建立されたことを証明する本尊也」と書かれたのです。「準じて」というのだから本物ではない。これを見た池田は、最後には怒っただろうと思うのです。それからまた色々なこともありましたが、池田には、どうしても日達上人が自分の思惑のままにならない、ということでの不平不満があったのであります。

それから池田は四十七年十月十二日には、正本堂完成奉告大法要の慶讃の辞で、

「大御本尊公開の時運招来の為に奮迅」(大日蓮・昭和四七年一二月号二三㌻)

ということを言っているのです。つまり正本堂が出来て、「今度は公開だ、公開ということが広宣流布なのだ」と言うのだから、正本堂を公開するという意味において、正本堂そのものが事の戒壇であるという意味を、ここで言っておるわけであります。

そういう背景において、『国立戒壇論の誤りについて』のなかでも「現在は違うけれども未来においては、その戒壇が御遺命の戒壇でないということは必ずしも言えない」というような、今考えてみると言い過ぎにも思えるようなことを言ってしまっているのであります。だから、あの書を廃棄すべきかとも考えたけれども、私としては廃棄するべきてはないと思ったわけです。やはり日達上人のもとで私が御奉公させていただいたのだし、当時の宗門の流れの上から、その時その時の事実は事実として、きちんと残しておいたほうがよいと思うのです。また正直に言いますと、やはりその当時は、私はそういうように書かざるをえなかったし、そういうようなことがあったのであります。

また広布第一章・第二章ということも、池田が言い出しています。そして有名なことだが、昭和四十七年十月十二日の正本堂完成奉告大法要が終わってから、帰る信者に向かって「今日、大聖人様の御遺命が達成されました」というような言葉を言わせたのです。これは聞いたことがあるでしょう。それを、こそこそと側近の者に言わせたのだから、まあ、とにかくなんとしてでも御遺命の戒壇の達成ということに持っていきたかったということです。

それから、その翌年の昭和四十九年辺りに、先程言ったような陰謀が出てきます。さらに国際センターの話もあって、これは日達上人が断固としてお断りになったわけです。この国際センターを作るということは、その世界的な在り方の組織として創価学会インタナショナルのような組織があり、その全体のなかに日蓮正宗も入ってもらうというような形になるというのです。つまり日蓮正宗もその傘下に入ることになるというので、日達上人は一時、大変に心配されておられました。そのほかにもなんだかんだありましたが、とにかく学会は、あらゆる面からお山を自分達の傘下にしようと画策していたのであります。

また、これは全然違う話だが、正本堂が出来たあと日達上人の御在世中に、このなかにこれを知っている人がいるかどうか判らないが、正本堂の御戒壇様の鍵を学会で管理したいと言い出したことがありました。もちろん日達上人は断固としてお断りになったと聞いております。これについては、私も直接には知らないのですけれども、そういうこともあったと伺っております。御戒壇様が学会に管理されてしまったら、もう学会のやりたい放題になって、大変なことになってしまったでしょう。そういうこともありました。

ほかにも様々なことがあり、先程の賞与御本尊の問題もあったけれども、四十九年八月から十一月にかけて妙信講の処分という問題がありました。結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております。ただ「王法」の解釈と、正本堂の建物についてのことでは書き過ぎがあったという感じもしておるのですけれども、しかし、これもその当時の流れのなかで彼らを慰撫教導するという意味では、あのように書いたことはやむをえなかったと思っておるのであります。

それで浅井を処分し、それからあとは、浅井は宗門の者ではないということになっていますが、浅井達はその色々ないきさつに関して裁判で訴えてきたのです。その流れ等も色々ありましたが、このことに対しては藤本総監が当時の在り方のなかで色々と述べておるものがあります。しかし、今はこれを省略いたします。

この浅井の言っておることのなかには、特に「天母ヶ原」ということがあるのですが、これについては、日寛上人も『報恩抄文段』に、

「富士山天生原に戒壇堂を建立する」(日寛上人御書文段四六九㌻)

ということをおっしゃっているのです。それで浅井は「天母山の戒壇」と言っているのです。天母山というのは大石寺の東、四キロ強の所にある小高い山だけれども、あれも東側のほうは大石寺の所有になっています。

とにかく、「天生原に戒壇堂を建立する」ということを御先師が言っておるけれども、このようなことをだれが言い出したかということでは、文献的に確かなものはないのです。ただ、日興上人の書かれたという棟札が一つあって、その裏書きに「天母原」ということがあるけれども、これは日興上人の御筆ではありません。おそらく、あとから書かれたものであると思います。

そこで、日達上人が色々とおっしゃったなかでは、「天生原」というのは富士山の山麓一帯を言うのであり、そのなかでも特に、縁あって本門戒壇の大御本尊を安置するところの総本山の場所が、その中心である。また、その意味から、由緒ある建物、正本堂等はここに建つべきてあるということをおっしゃっておったのであります。ところが、浅井はあくまで天母山だと言っております。そもそも「天母山」の場合は天の母と書くのに対して、日寛上人の『報恩抄文段』などは「天生原」と「生」の字が使ってあり、その文字の違いは内容的にも違うのです。だいいち、天母山は水の便も良くないだろうし、まあ掘れば水ぐらいは出るかも知れないが、山の上で偏狭な所です。だから将来、広宣流布の時の大勢の参詣者を想定するという面から言っても、やはり不適当と思われます。

さて、私が昭和五十四年にお跡を受け、それからずっと来た平成二年の夏に、法華講の大集会を開きました。あれは「三万総会」という名目で行ったのだけれども、実際には四万人以上が集まったのです。それからさらに、その年の十月十三日には大石寺開創七百年の慶讃大法要が行われ、私はこの時の「慶讃文」で、

「一期弘法抄ニ云ク 国主此ノ法ヲ立テラルレバ富士山ニ本門寺ノ戒壇ヲ建立セラルベキナリ。時ヲ待ツベキノミ。事ノ戒法ト云フハ是ナリト。コノ深意ヲ拝考スルニ仏意ノ明鑑ニ基ク名実共ナル大本門寺ノ寺号公称ハ事ノ戒法ノ本義更ニ未来ニ於テ一天四海ニ光被セラルベキ妙法流布ノ力作因縁ニ依ルベシ」
(大日蓮・平成二年一一月号八六㌻)

ということを言いました。少し難しい言葉だけれども、これを簡単に言えば、本門寺の公称は未来だということを言ったのです。この時の池田大作は、怒りたくても怒れないような、なんとも言えない顔をしておりました。大客殿では、私はちょうど東を向いているから見えたのです。そのあと彼も出てきて挨拶したけれども、その時の顔はなんだか見ていられないような顔でした。

けれども、私は信念を持っているのです。いくらなんでも、あのような間違った流れや様々な形のあったなかで、しかも池田のわがまま勝手な姿の色々と存するなかにおいて、今現在、直ちに「本門寺の戒壇」と称すべきではないと思っていました。しかし池田は、おそらくあの大石寺開創七百年慶讃大法要の時に、この私が「大石寺を本門寺と改称したい」とか、「改称する」と言うことを期待していたと思うのです。それなのに「未来のことだ」と言ったものだから、怒ったのでしょう。だけど色々な状況上、私は一宗を統率させていただくという意味において、安易に「本門寺と改称する」などとは言えないし、また、あそこで「本門寺にする」とか、「本門寺になる」というような意味のことを言わなくて、私はよかったと思っておるのであります。

ですから、「たるべき」ということも、あくまで願望・予想であり、したがって日達上人が「もう広宣流布だな」とおっしゃったというのも慰撫激励その他、色々な深い意味がおありになってのお言葉であり、直ちに御遺命達成と言われたのでは絶対にないと思うのです。だから、池田がこれを様々に利用してきたけれども、あくまでも願望であるということの上から、正本堂が御遺命の建物そのものではないということを、三年の一月にも言いました。これは前の二年の時の在り方から出てきておるのであります。

つまり、君達も知っているように「一一・一六」という話があるでしょう。これは、この平成二年の十一月十六日のことてす。この年の十月十三日に大石寺開創七百年の慶讃大法要で私の「慶讃文」を聞いて、池田は怒って、「よし、それならば日顕のやつをやっつけてしまえ」ということで私を誹謗したのが、約一カ月後の「一一・一六」の発言なのであります。そのあとすぐ次の日に、普賢岳が噴火したわけで、池田の大謗法、歴然です。そういう流れがあったのであります。

そこで、平成三年三月九日に私が色々と述べたことに関しててすが、私が教学部長時代に書きました『国立戒壇論の誤りについて』と『本門事の戒壇の本義』という本があります。そのなかに、正本堂は広布の時に『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇となる建物だというように、その時はそう思って書いたけれども、現在においては不適当であると、これははっきり言っております。この時はまだ正本堂もありましたから当然、その願望は込めつつも、未来の一切は御仏意に委ね奉るのであると言ったのであります。

ところが三年の十二月八日に、池田大作は、

「正本堂には八百万の御供養者名簿がある。また正本堂を、日達上人は永久不滅の大功績と言われた。だから、だれびともこれを壊すことはできない。自分達が世界一の正本堂を大聖人へ御供養したのであるから、正本堂は私達民衆の殿堂と言い切る資格がある。これをハイジャックか何かのように乗っ取り、横取りし、我がもの顔に居座る悪人が出現した」(聖教新聞・平成三年一二月一〇日付・取意)

という主旨のことを言っているのです。これは私のことを言っているのだが、私は横取りしたわけでも、なんでもないではありませんか。昭和五十四年からずっと総本山にいるのです。そうでしょう。それを何を横取りしたと言うのだ。ただ平成二年十二月の終わりに法華講本部の機構を改正した時に、前の「宗規」によってなった総講頭・大講頭等にはいったんやめてもらう、ということでやめてもらったに過ぎないのだから、横取りもへったくりもないのです。しかし、そういうことを言っているのです。

そしてまた「須弥壇の基底部に桐の箱を納めた」というようなことも言っているのだけれども、このうちの日達上人の記念品は現在、きちんとお山で保管してあります。池田大作のモーニングなどはどうか知らないけれども、日達上人のお衣や願文等は、きちんと保管してあります。

それで、昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、先程から言っているように私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います。

あのなかでは、王法や勅宣・御教書に対する解釈を述べるなかで、「建築許可証」というようにも書いてしまってある。これは当時の在り方において、学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまったのです。けれども、今考えてみると、やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです。

それから『一期弘法抄』の「国主」ということの考え方、これもそうです。今は国民主権だから、国主というのは今ではたしかに民衆なのです。けれども、政治の在り方等というものは、いつどこでどう変わるか、未来のことは判りません。日達上人も「未来のことは判らない」ということをおっしゃっておりました。

とすれば、我々は本当に全人類を救済するという大目標の上において、御本仏大聖人様が最後に御遺誡また御命題として我々にお残しくださった『三大秘法抄』『一期弘法抄』の「戒壇」の文については、軽々にああだこうだと言うべきではないと思います。もちろん今、ある時点を予測して考えれば、こうともああとも色々なことを言えるけれども、将来どう変わるかということは本当に判りません。だいいち、日本の現在の民主主義の形だって、憲法だって、将来どう変わるか判らない。だから、そんなことに関して今、どうのこうのと具体的な形で言う必要はないのです。一番最初に言ったように、戒壇というのは事相だということを、大聖人もおっしゃっておりますように、事相なのだから、実際の相というものはその時でなければ明確性が顕れません。よって『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ということは、まさにその時が来た時に、本門戒壇の大御本尊様を根本と拝しつつ、その時の御法主がその時の実状に即した形で最終の戒壇を建立するのだと、私どもは信ずべきであると思うのであります。

そこでまた、なぜ正本堂を壊したのだということですけれども、やはり創価学会のあのような謗法の姿が平成二年・三年から出てきて、しかも正本堂の発願主である池田大作は、平成四年に既に信徒除名されているのです。たしかに日達上人も御苦労あそばされ、正本堂のことに関しては大聖人様への御奉公のお心をもって真剣にあそばされたけれども、今日の状況から見るならば、結局、総本山に正本堂が存在することは広宣流布への大きな妨げとなるということに、一言もって尽きると思います。したがって、このような謗法の姿があるのであり、まして正本堂が『三大秘法抄』『一期弘法抄』の意義を含むと言っても、それは大勢の信徒が本当に御戒壇様を拝する姿があって初めて、そう言えるのであります。しかし現在、その姿は全然なくなっているではないか。最近では、戒壇の大御本尊様にすら疑いや文句を付けているようなことも聞いています。そういうような莫迦どもが今日、大勢充満しているような姿があり、しかも「我々が造ったのだ」と言って威張り返っているような意味においては、正本堂はやはり未来の真の正法広布の妨げになると思っておるのであります。そこで大客殿に続いて正本堂を解体し、奉安堂を造らせていただいた次第であります。

この奉安堂については、池田大作が正本堂に関して『三大秘法抄』だ『一期弘法抄』だと言って強いてめちゃくちゃに意義づけしたようなことは、私は何も言っていないし、宗門でももちろん言っていません。奉安堂は、ただ戒壇の大御本尊様の安置の殿堂であります。しかし、今日においてはあれ位の大きさがないと、実際問題として困るのです。今年も例年同様、信徒の夏期講習会が十回にわたって行われましたが、だいたい四千から五千人、多い時だと五千数百人の方が、その日一日で来ておるわけです。そういう面からも、かなり大きい建物でないと、今の法華講の方々の信仰心による参詣行事等の対応の必要性においては不適当な意味もあります。したがって、敢えてそういう大きさの奉安堂をお造りさせていただいたわけであります。

さて、この奉安堂においても、日達上人の時と同じように御戒壇説法があります。これはもちろん二大法要の時にだけ行う例になっておりますから、今日も行わなかったし、普段は行いません。しかし、昔はそうではなかったのです。このことを知る人も、ここにはないだろうけれども、昔、まだ私が小僧から所化のころ、御宝蔵で御開扉をお受けしました。だいたい日開上人から日恭上人のころで戦前の話だが、そのころはしょっちゅう御戒壇説法があったのです。

例えば、ある日は十人なら十人、十五人なら十五人の登山者があると、そのなかに新登山者がいる場合には、それを内事部で聞いておいて、きちんと御法主に報告するのです。すると、新登山者が一人でも二人でもある時には必ず、御法主が御戒壇説法をされたわけです。だから今も、私もしようかなと思ったりもしているのだけれども、ずっとしないで来てしまっているから、今のところまだしておりません。もっとも、今は大勢だから「あなたは初登山ですか」と一々聞くのも大変だから難しい意味もあります。とにかく、昔はそういうように御戒壇説法をしたのです。

その時の御戒壇説法は、私もだいたい伺っておったのですが、そのなかには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」という御文はありませんでした。ところが、先程話したように私と観妙院日慈上人が宗務院の役員として日達上人に伺った時には、日達上人が御先師の説法本をお示しになり、そこには「この所すなわちこれ本門事の戒壇」というお言葉があったのです。

それから、もう亡くなったけれども、日開上人の弟子で私の法類に奥法道という人がいまして、この人が非常に書き物が好きな人で、ありとあらゆるものを書き写していました。その奥法道師の写本のなかに、日開上人の御戒壇説法というものがあったのです。今でもどこかに残っていると思いますが、そのなかには、ちゃんとその文があるのであります。ところが、またおもしろいことに、日開上人が当職の当時は、御戒壇説法を扇子にずっと書かれていたのです。たしか金銀の扇子だったが、それを開くとずっと墨で書かれてあって、それを読まれていました。しかし、これは割に簡単な御説法で、それには先程の御文はなかったのです。小僧のころだったが、私も聞いていて、「本門事の戒壇」ということはたしかにありませんでした。また御先師の日応上人の御戒壇説法にもないのです。だから、いつ、どこで、どなたが、どう始められたかは判らないが、六十世日開上人の写本としてはあったのです。もう一つは、日達上人が我々にお示しくださった御先師の御説法本のなかに、それがあるということです。よって、先程の意味から言っても、また日達上人のあらゆる点からの御指南から言っても、本門戒壇の大御本尊のおわします所が事の戒壇という御指南は、たしかにそのとおりだと思います。

ただ、私が今考えていることは、今日こういう話をすることは一つのけじめだということを言ったけれども、やはり今日は創価学会の、一時、八百万とも称したような人数が御戒壇様に御参詣するような状態ではない。しかし三十万の総登山があったように、これからさらに未来に向かって、日達上人が仰せの「因の広宣流布」に向かっての行業を進めるわけであります。要は、日寛上人が『法華取要抄文段』で、

「広宣流布の時至れば一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。其の処は皆是れ義理の戒壇なり。然りと雖も仍是れ枝流にして、是れ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」(日寛上人御書文段五四三㌻)

とおっしゃっておりますが、この「根源」というところに当然、深い意味があるのであり、つまり本門戒壇の大御本尊まします所が根源なりとおっしゃっているわけです。だから、御戒壇説法の「この所すなわちこれ本門事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということについては、「この所すなわちこれ本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」というように、「本門」と「事の戒壇」との間に「根源」という文字をお入れすることが、現時においては適切ではなかろうかと、私は思うのです。もちろん、これは御戒壇説法の時のことであって、普段からそういうような意味の定義だということではないのだけれども、しかし考えてみると、「本門根源事の戒壇、真の霊山、事の寂光土」ということだから、意味としては、事の戒壇であることを否定しているわけでは絶対にないのです。ただ「根源」の二字が「本門」と「事の戒壇」の間に入れることにおいて、日寛上人が「本門戒壇の大御本尊の所は根源である」と仰せになった意味を、そのままお受けするということです。このことは一年に二回だけのことではありますが、そういう意味で考えております。

ではそれならば、未来における広布の上からの『三大秘法抄』『一期弘法抄』の事の戒壇の目標と、その戒壇の建物というのはいったい、どういうものかと言うと、これは今、論ずるべきことではありません。それこそ本当に不毛の論であります。しかし考えてみれば、今もイスラム教の聖跡を巡拝する信徒達の数たるや、すごいものがありますが、将来、一日に二万、三万、五万以上の大勢の人が総本山に参拝するような形があると、大聖人様の御仏意の上から一往考えるならば、奉安堂などは小さいものだと思うのです。だから、その時になればまた、建築技術も盛んになっているでしょうし、いくらでも大きい物を造ればよいのです。

要するに、御遺命の戒壇は『一期弘法抄』の「本門寺の戒壇」ということであります。だから未来の戒壇については「御遺命の戒壇である」ということでよいと思うのです。そして、その御遺命の戒壇とは、すなわち本門寺の戒壇である。さらに本門寺の戒壇ということについて、浅井達は「国立戒壇」と言っているけれども、御遺命という上からの一つの考え方として「国主立戒壇」という呼称は、意義を論ずるときに、ある程度言ってもよいのではなかろうかと思うのです。なぜならば、大聖人様の『一期弘法抄』に、

「国主此の法を立てらるれば」(御書一六七五㌻)

とありますが、国主が立てるというお言葉は、そのものまさに「国主立」でしょう。国主立とは、『一期弘法抄』の御文のそのものずばりなのであります。

また同時に、その内容を考えてみたとき、今は主権在民だから国主は国民としたならば、こういう主旨のことは日達上人も仰せになっているし、学会も国立戒壇に対する意味において色々と言ってはいたわけです。だから国主が国民であるならば、国民が総意において戒壇を建立するということになり、国民の総意でもって造るのだから、そういう時は憲法改正も何もなく行われることもありうるでしょう。ところが、国立戒壇ということにこだわるから、あくまで国が造るということになり、国が造るとなると直ちに国の法律に抵触するから、どうしても憲法改正ということを言わなければならないような意味が出て、事実、浅井もそのように言っているわけです。だから国主立、いわゆる人格的な意味において国民全体の総意で行うということであるならば、憲法はどうであろうと、みんながその気持ちをもって、あらゆる面からの協力によって造ればよいことになります。要は、正法広布の御遺命を拝して、倦まず弛まず広布への精進を尽くすことが肝要であります。

しかし、私は「国主立ということを言いなさい」と言っているわけではありません。ただ私は、国主立という言い方もできるのではなかろうかという意味で言っているだけで、正規に大聖人が我々に示され、命令された御戒壇は何かと言えば御遺命の戒壇、いわゆる本門寺の戒壇であります。そして、これは本門寺が出来た時に行うということです。ですから、正しい御遺命の意義における本門寺は、まだ当分は出来ないだろうけれども、これからの我々の信心修行、折伏の成果において具体的に現れてくるということを考えていきたいと思うのであります。

以上をもって本日の話を終わりとします。
(文責・編集室)

(大日連 平成16年12月号 27~62ページ)

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