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第五十三回全国教師講習会の砌 (前)

第五十三回 全国教師講習会の砌(前編) 平成16年8月26日

第五十三回全国教師講習会の砌

御法主日顕上人猊下御講義(前)

平成十六年八月二十六日
於 総本山大講堂

本年度の私の講義内容については、昨年に引き続いて『百六箇対見之記』に関してお話ししようと考えていたのであります。けれども、ここにおいでになる皆さんのなかには最近、若い人も非常に増えてきておりますし、宗門の終戦以来の流れとか歴史というようなことに、直接的には当たっていない人も多いと思いますので、けじめをつけるという意味からも、今年は『百六箇対見之記』の講習をやめまして、大聖人様の御法門のなかの特に「戒壇」ということについてお話ししたいと思います。

この戒壇ということの内容は、実際問題の上において色々と表れてきて、その後の色々な経過の形があって、そのなかから現在の宗門の姿があるわけです。この戒壇の意義においては、例えば、正本堂が解体されてなくなったから、それで戒壇の意義は全くなくなったなどと言うのはとんでもない話で、大聖人様の三大秘法の教えは未来永劫に、我々がこれを拝しつつ、実践をしていかなければならないのであります。その面からも、いわゆる大聖人様の一期の御化導を拝するなかで、戒壇ということに関しての終戦後の流れのなかから、特に若い人は色々と知らない人もかなりあると思うのです。そういうことも考えながら、申し述べてみたいと思います。

まず、大聖人様の一期の御化導における肝要は三大秘法でありますが、このうちで宗旨建立以来、自らもお唱えあそばされ、衆生をも導かれたのが本門の題目であります。さらに、本門の題目の上からの法華経を身に当ててお振る舞いあそばすところの在り方から、それが佐渡における本尊の開顕となるのであります。そして最後に戒壇という御指南があるのですが、そもそも大聖人様が三大秘法の名目を明らかにお示しになったのは、佐渡からお帰りになって身延に入られ、直ちに御著作になった『法華取要抄』であり、そこにおいて初めて、

「本門の本尊と戒壇と題目」(御書七三六㌻)

という名目を顕されたのであります。もっとも、その前に『法華行者値難事』の追申において、ややそれに近い、三大秘法の内容と思われる御指南がありますが、これはあくまで追申でありますから、正規の著述という上からは、まだ本門の三大秘法の名目をはっきり示されていないのです。

つまり『開目抄』にも『観心本尊抄』にも示されていないのであり、これをはっきり顕されるのが『法華取要抄』であります。もちろん、三大秘法のなかの特に本尊の人本尊、法本尊の意義については、既に佐渡の国で開観両抄ほか、様々な重大御書のなかにお示しになっておるのですが、ただ三大秘法中の戒壇ということに関しては具体的には何もないのです。

しかし、また一期の御化導から拝しますと、大聖人様が二十一歳の時に、一番最初に著作されたのが『戒体即身成仏義』であり、戒についてお示しになっているのであります。これには実に不思議な意味を感ずるのです。そのすぐあとに『戒法門』の御法門もありますが、これはもう少し一般的な意味を持っておるのであり、そのあとはほとんどが、戒定慧のうちの定慧の法門が芯になって、ずっとお示しになっておると思われます。

しかるに戒壇については、今言いました『法華取要抄』以降において、本門の本尊・戒壇・題目という三大秘法の名目を挙げられた御指南があります。ところが『法華取要抄』にも、さらには三大秘法のうちの本尊と題目の内容をはっきり述べられた『報恩抄』においても、ただ、

「本門の戒壇」(同一〇三六㌻)

とお示しになっているだけで、戒壇の内容については全くお示しになっておられません。

弘安に入って『本門戒体抄』という御書があるけれども、これは受戒のほうからの本門の意義を戒体として述べられておるわけですから、直ちに戒壇ということの御指南ではなく、それとはまた少し違うのです。もちろん戒壇で戒を受けるわけだから、当然、関係はあるけれども、特に戒壇そのものの法門という意味ではないのです。

また、『教行証御書』は建治三年にお示しの御書ですが、これは良観が特に戒ということを言っておるので、その良観を破折し、対応する意味から、大聖人様の御化導中の戒ということをおっしゃっております。特に、有名な「金剛宝器戒」の御文を示されて、本門の妙法蓮華経の戒が最高の戒であるということが述べられておるのであります。しかしこれは受持即持戒ということからして、定慧の二法が広まれば、受持即持戒が本門の法体の上に、その功徳が明らかに成ぜられるのです。したがって、その意味からは、戒法を受持する場所がそのまま戒壇であると拝せられるのであります。

ところが、大聖人様は個人個人の成仏ということだけでなく、法界一切衆生の成仏という上から、当時の在り方として、南都六宗の時には聖武天皇と鑑真和尚、それから桓武天皇と伝教大師というような意味をさらに進めたところの、本門における国主と僧侶との上からの教導においての戒壇の在り方を示されておるのであります。

そこで戒壇ということが、ほかの本尊や題目と違う意味は、特に大聖人様の御法門においては「事相」ということが存するのであります。文永十年七月六日の『富木殿御返事』のなかに、元は漢文でありますが、

「伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす。但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕はせり。事相たる故に一重の大難之有るか」(同六七九㌻)

という御文があります。これは伝教大師のことを示されておる御文ですが、この前の文とあとの文は、ともに大聖人様御自身の御弘通の上からの妙法蓮華経の御法門をお示しになっており、この御文はそれらに挟まれているのです。なぜ、ここで唐突に伝教大師に関する文が出てくるのかということは、この文を拝してみると、その意義を拝する拝し方に、ある深さを感ずるのです。

すなわち、この御文は漢文のため、「伝教大師」と「御本意」の送りがなについては、今までに色々な付け方がありました。古いところで『高祖遺文録』は「伝教大師御本意円宗ヲ…」とあって、「師」と「意」の下の送りがなはありません。日蓮宗の『昭和定本』と宗門の『昭和新定』は「伝教大師御本意ノ…」となっており、「師」の下の送りがなは付けていないのです。『縮冊遺文』は「伝教大師ノ御本意ノ…」と両所が「ノ」になっており、また創価学会から出した堀日亨上人の『御書全集』も、初めは「伝教大師の御本意の」となっておりましたが、のちに「伝教大師は」と改めております。つまり前後の文との関連から「伝教大師の御本意の円宗を…」と読むと、「大聖人様が、伝教大師の御本意であったところの円宗を日本に弘めんとされた」という意味で、大聖人様のお立場にも通ずる意味をおっしゃっておるようにも取れるわけです。ところが「伝教大師は御本意の円宗を日本に弘めんとす」ということになると、これは、前後は大聖人様御自身の弘通のことをおっしゃっておるけれども、この部分だけはあくまで伝教大師のことを特別に挙げられていることになります。

宗門で出しておる信徒用の御書、いわゆる『平成新編御書』のなかでは、ここは「伝教大師は」と変えてあります。これでもよいとは思いますが、私としては『昭和新定』『昭和定本』と同じく、むしろ「伝教大師御本意の円宗を日本に弘めんとす」というように、「伝教大師」のあとには「の」も「は」も付けない読み方もよいのではないかと思うのです。これならば、伝教大師が弘められ、また日蓮がこの意義をもって三大秘法の上の戒の法門を弘めるのである、という両方の意味に取れるのでよいのではないかと拝するわけであります。

それはともかく、私がここで何を言わんとしているかというと、ここの御文に「事相たる故に一重の大難之有るか」ということをおっしゃっておるのです。たしかに、皆さんも御承知のように、戒壇は事相であります。事相ということは、実際の問題なのです。

現在、ありとあらゆる宗旨の著述が無量無数にありますが、それがどんなに難しい法門でも、また広く深い法門でも、法門の法理というのはみんな、内容的には定と慧になるのです。それに対して、戒の本義を具体的に顕そうとすると、これは事相ということになるから、実際の問題なのです。

ただ単に口で言うだけなら、どんなことでも言えます。まことに逆しまなことを、さも本当のような形で言うことだって、理屈としては、言えるわけです。しかし、実際に戒を顕すということにおいては、事相という実際の問題としてのこととなりますが、いい加減なことでは済まされない、つまり、はっきりとした形でなければならないということであります。

例えば、御承知のように、伝教大師は迹門の戒壇を建立しようとして勅許を願ったけれども、当時は国主である天皇の許しがなければ、そういう戒壇を建てることができなかったのであり、したがって、南都六宗の反対に遭って、在世中には結局、建立できなかった。そして伝教大師の滅後、天長四(八二七)年、第五十三代淳和天皇の時に、伝教大師の弟子の義真が叡山の座主として、やっと大乗円頓戒壇を建立できたということであります。

それより前に出来た小乗の三戒壇は、第四十五代聖武天皇の勅によって東大寺の戒壇が建立され、また天平宝字五(七六一)年に、第四十七代淳仁天皇の勅によって建立された下野の薬師寺と筑紫の観世音寺の戒壇、これを天下の三戒壇と言ったわけです。もちろん、これは一番最初に日本国に出来た、国で定めた戒壇であります。

さて、大聖人様が戒壇ということをはっきりおっしゃったのは『三大秘法抄』の、

「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて云云」(同一五九五㌻)

という有名な御文です。この所に「王法仏法に冥じ、仏法王法に合」するというところからの王法と仏法の関係が、はっきり述べられておるわけです。もう一つは『一期弘法抄』で、

「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」
(同一六七五㌻)

というなかに「国主」という語があるのですが、今まで言ったように、小乗の戒壇、大乗円頓の戒壇は国主の、つまりその当時としての国主は天皇だったわけですから、天皇の勅命があって初めて建てることができたという意味があります。鎌倉時代には、やはりそのような在り方の上から当然、戒壇を勝手に造るということはできない意味もあったし、また当時は、天皇が政治をするのではなく、鎌倉幕府というのが存在したのです。その上から、当時は特に将軍の副申書というような形もあったようでありますが、『三大秘法抄』においては、

「勅宣並びに御教書」(同一五九五㌻)

ということをおっしゃっておるわけです。要するに、天皇が定めているところの法の処置乃至、裁断という意味を含めての王法ということ、あるいは国主ということをおっしゃっておると思うのであります。

それから時代がだんだんと移り変わってきて、明治維新になったのです。そして明治二十二年二月十一日に憲法が発布されたのでありますが、これは欽定憲法、いわゆる天皇の命令によって決められた憲法なのです。徳川時代には幕府が決めたことがあり、またさらに藩が自分に都合のよいような意味でその国々ごとに法令を作って、色々な実情において国民生活は縛られていた面が非常に多かったわけであります。しかし明治に入って、いわゆる自由民権という考え方等も色々あり、自由ということが非常にはっきりしたわけです。

まず明治憲法では居住と移転の自由というのがあります。これは、どこに住んでもよいということで、それ以前は、どこかに勝手に住むことは浮浪者か、あるいは旅人のような者でなければできなかったということもあります。また信書の秘密の自由があり、所有権の自由があります。

そして一番大事なのが、信教の自由ということが明治欽定憲法では示されておるのです。何を信じてもよい。昔は寺請制度というのがあり、その寺ごとに人別帳があるものだから、そこから離れて勝手に宗旨を変えることが不自由だったのです。そういうような意味からも、明治の憲法において信教の自由が謳われたというところに、「自分は今まで念仏を信仰したけれども、今度は南無妙法蓮華経を信仰しよう」ということが自由にできるようになったのです。そういう点では、明治の憲法が非常によい意味があったわけです。

故に、法難ということもなくなったのです。徳川時代には、宗門でもたくさんの法難がありました。これはみんな、信教の自由がそれぞれの藩のなかにおいて閉ざされていたということから来ているのです。

そのほかにも言論の自由、著作の自由、印刷発行の自由、集合の自由、結社の自由と、みんなも知っているだろうけれども、こういう自由が欽定憲法においてはっきり示されて、明治以降の民権の意味がある程度、謳われたわけであります。

そして戦後の日本国憲法、いわゆる新憲法が昭和二十一年十一月三日に公布されました。この時に改正された新憲法と明治憲法との一番違うところというのは、明治憲法では天皇主権であり、国民に自由はあったけれども、あくまで天皇が主権であるという次第でありました。ところが新憲法のほうでは、国民に主権があるということになったのです。そこに大きな違いがある。

さて、こういうことが今まで宗門のなかで色々と論議されてきた戒壇に関する考え方に、非常に大きな影響を与えておるのです。すなわち「国立戒壇」という語がありますが、この国立戒壇という考え方は天皇主権という明治憲法が背景になっているのであります。天皇主権ですから、もし天皇がその気になって、私はこの信仰をするということになれば、国教にすることだって可能だったかも知れません。実際にはならなかったから、そういうことになったときに、どういうようなことが起こるか判りませんが、あるいはずいぶん反対も起こり、大変なことにもなったかも知れないけれども、一往、制度の上では天皇主権だから、それができないとは言えないのです。実行しようとすれば、できる可能性が充分あったわけだから、そういうことのなかから、天皇の法華信仰によって皆帰妙法が日本国に行える可能性はあった。そこで、これを言ったのが、国立戒壇という語であります。

これを、浅井昭衛が指導するところの妙信講・顕正会においては、徹底して国立戒壇を言っているのです。彼らは絶対に国立戒壇でなければ、大聖人様の仏法に照らして間違っているのだと言うのです。そこで、こういうことは若い人も割に知らない意味もあるのではないかと思い、今回、これについて話をしようと思ったのであります。

この国立戒壇という名称は、日達上人もこの問題が起こってからずいぶんたくさん、ありとあらゆる機会におっしゃって御指南あそばされましたが、要するに、大聖人様の御書のなかに直接に国立戒壇という語はどこにもないのです。

ただ最後の『一期弘法抄』において、「国主此の法を立てらるれば」という御文があります。この「国主」の語には人格的な意味があるが、国の上から人格的な意味を示すと、結局、天皇になるのであり、だから国が立てるというのと、国主が立てるということは、実には意味が違ってくるのです。むしろ、あの御文から拝するならば、「国立」でなく「国主立」と言うほうが、内容的には適切ではないかという意味もあります。まして、その後において宗門の御先師の方々が大聖人様の三大秘法の御法門について色々な面から述べられておるけれども、「国立」という語をおっしゃった方は、明治以前は一人もないのです。今も文庫に御先師の文献がたくさんあるけれども、どこを探しても、御先師が「国立」ということをおっしゃっておる文はありません。

これは要するに、明治十四年四月に田中智学が国柱会の元となる結社を作ったのですが、これが日蓮宗から出て在家仏教的な形から大聖人様の仏法の一分を宣揚しようとしたわけです。そこで明治三十六年に講義をした『本化妙宗式目』という書があり、そのなかに、宗旨三秘」を説くなかの「第六科・戒壇の事理」という内容があるのです。その第一項が「即是道場理壇」で、第二項には「勅命国立事壇」というのがあって、理壇と事壇、いわゆる事壇のほうは「事の戒法」と言われるところの『三大秘法抄』の勅宣での意義を取ったのでしょう。それが勅命であり、国立戒壇だということを初めて言ったのです。

そして、そこには事壇の出来る条件として、まず大詔が喚発されると言うのです。つまり天皇の勅令が発せられると、一国が同帰になる。つまり、ありとあらゆる宗旨がいっぱいあるけれども、この意見からするならば、一国がことごとく妙法に帰する。しかも政教一致であると標榜しておるのであります。さらに国家の統一を中心として、その一大勢力を作って世界の思想・宗教を妙法化せしめるということを言っておるのです。そういう意味から、国社会が初めて、国立戒壇という語を言い出したわけであります。

それでは我が宗門でも国立戒壇ということを言っていたかというと、国柱会の田中よりあとで、やはりおっしゃっているのです。前述のように明治に田中智学が言い出しましたが、そのあと大正年間においては、例えば日柱上人も当時の出版文書に色々と大聖人様の御法門を述べられたけれども、そのなかには見当たらないのです。また日応上人の文中にも拝することができないと思われます。これは実を言うと、昭和になってから出てくるのです。

このいきさつというのは、当時、田中智学が国柱会の前に標榜していた蓮華会というのがあって、それと宗門の御先師の方とが法論をしたのです。『富士宗学要集』にはその顛末が載っていますので、読んだ人もあるでしょう。ずいぶん往復の問答があるのです。私も若いころに読んだけれども、その内容はほとんど本尊論で、戒壇論には全く触れられていないのです。

けれども、それからずっとあとの昭和になってから、また他門との問答があったのです。その問答のなかで、「国立戒壇では何を御本尊にするのだ」という内容になった時に、向こうは「その時になって決めればよいのだ」などと色々なことを言ったのですが、こちらはきちんと「国立戒壇というものはとにかく、正規の戒壇を国家において造るときには、本門戒壇の御本尊様を安置しなければならない」ということを述べて、その論議の時に向こうが国立戒壇ということを言ったわけなのです。その論議においては、国立戒壇という名称に主眼があったのではなくて、御本尊をどうするかということが、その内容だったのだけれども、向こうがその意味において使うたものを、こちらも使ってしまったわけです。そういうことから、宗門のなかでも国立戒壇という名称の使用が出てきたわけであります。

そこで、少なくとも昭和二十年の終戦以前は、要するに欽定憲法だったわけですから、あくまで天皇主権なのです。したがって、国立戒壇ということを論ずるには、どうしても天皇の許可を得るということが一番の根本・中心になるということの考え方だったのです。そのような状況のなかで、国立戒壇ということは、宗門では日淳上人が二十八歳の時におっしゃっております。だから当然、御登座になるずっと前の、まだ若い青年僧侶のころのことで、御登座されてからおっしゃっているということではないのです。ただ、そのような在り方のなかで、向こうがまず国立戒壇ということを御本尊に関してのなかで言ったから、こちらもそれに対応した形で国立戒壇という言葉を使ったというようなことだと思われます。

さて次に、総本山第五十九世日亨上人は昭和四年に書かれた『富士大石寺案内』において、戒壇は国立戒壇であるということを、はっきりおっしゃっております。もちろん昭和四年ですから当然、欽定憲法下における天皇の裁可による国立であるということをお考えになっていたと思うのです。

ところが、それから時代が進んで終戦後には、先程も言ったような形での新憲法が公布になり、国民主権となるわけです。それと同時に、今度の新憲法においては、明治欽定憲法でははっきりしていなかった政教分離ということが、憲法第二十条ではっきり示されているのです。政教分離だから、政治の上からは絶対に、宗教に関与してはならない。そして宗教もまた、政治を利用してはならない。政治と宗教は全く別個のものとして、はっきり切り離さなければならないということが今の憲法なのです。

それからいくと、国民主権になっているのだから、田中智学が言ったような形での戒壇建立のため、天皇が裁可・決定するということは絶対にできないわけで、やはりこれは国民の総意でなければならないということになります。それからもう一つは、政教分離ですから、国教にするというようなことは、今の憲法下においては絶対にできないのです。

ただ浅井は、みんなが信仰するようになれば、その時に憲法を改正すればよいというようなことを言っているようです。もちろん、そのようになれば憲法改正ということも理論的にできないことはないでしょうけれども、しかし、その元として、「国が立てる」というところの「国」というものが、「王法」ということの解釈から言って、はたしてどうなのかという問題があるのです。この王法ということについては、あとからも出てくるけれども、浅井の問題や色々なことがあって、『三大秘法抄』の王法をどのように考えればよいか、宗門でも色々な解釈をしたのです。浅井は、王法というのはあくまで国の統治主権であり、その統治主権においてこの王法があって、それと仏法とが一つになるということだと言うのです。

ところが、民衆立を主張し、正本堂を事の戒壇、御遺命の戒壇というところにまで持っていこうとした池田大作の間違った野心からすると、それでは絶対に困るのです。だから王法は、政治や経済、教育など、国民生活全般のありとあらゆるものを含んだ内容だというようなことを言っているわけだ。要するに、それは必ずしも天皇によるのではないということです。また実際に、この憲法が出来た以上は、天皇の力ということでは絶対にできない。それも憲法が改正されて昔のようになれば別だけれども、現在はそういう次第であります。

そこでおもしろいのは、戸田城聖という創価学会第二代会長になった人がいました。この創価学会というのは、そもそも牧口初代会長が創価教育学会というものを初めに作ったのです。それが戦後において宗教法人を取得して、創価学会という宗教法人の形になったわけです。その前は創価教育学会という一つの集まりで、別に法人でもなければ宗教的なものでもなかったのです。ただ、その考え方が、利・善・美という哲学だったのです。とにかく牧口さんは非常にまじめな人で、戦前において自分でかなり折伏をしたのです。

つまり牧口さんは『大善生活実証録』というものも出して、大善ということは日蓮大聖人の仏法だというようなことでやっていました。そして皆さんも知っているとおり、昭和十八年に特高警察に捕まって、そのあと獄中で亡くなったわけです。

その後、牧口さんの最大の弟子であると同時に理解者でもあり、跡を継いだのが戸田城聖という人で、昔は城外といって、城聖と言い出したのは少しあとからです。あの人も捕まって牢屋に入っていたのだけれども、終戦直前に解放されて出てきたわけであります。そして昭和二十五年十一月十二日の創価学会第五回総会の時、「国立戒壇」を仏勅であると初めて述べた記録があります。次は昭和二十六年五月三日、常泉寺で創価学会の会長就任式があり、この時にはこういうことを言っているのです。

「牧口先生は、謹厳実直な方で、わたくしとは性格が正反対で、夜なかにいたるまで先頭に立って折伏をつづけられ、会員は後の方で、ヤアヤアと掛け声ばかりであった」
(戸田城聖先生講演集上五一㌻)

つまり牧口さんは御自分でどんどん折伏をやるから、会員は後ろのほうで掛け声をかけていて、あまり折伏をやらなかったというような意味です。そして、この次に言っているのがおもしろいのですが、

「わたくしは、先生とは反対に、後に立って、みなさんを指揮し、広宣流布に邁進したい」(同㌻)

だから私は、自分よりおまえさん達に折伏をやらせるということを、ここで言っているのです。ところが、その次に、

「天皇に御本尊様を持たせ、一日も早く、御教書を出せば、広宣流布ができると思っている人があるが、まったくバカげた考え方で、今日の広宣流布は、ひとりひとりが邪教と取り組んで、国中の一人一人を折伏し、みんなに、御本尊様を持たせることだ。こうすることによって、はじめて国立の戒壇ができるのである」(同㌻)

と言っている。これは昭和二十六年だから戦後のことですので、当然、戸田さんは新憲法の意味を知っていて、その上から言ったことだと思うのであります。だから、ここでの方法論としては戦後の憲法の内容を言っているわけなのです。けれども、昔から来たところの国立という、田中智学が言い出した名称だけは一人歩きしているような形で存在していたわけです。

また、そのころ国立戒壇ということは、日亨上人が昭和二十五年に学会の書物のなかでお書きになっております。特に二十六年の五月三日に戸田城聖氏が、今挙げた国立戒壇に関する発言をしたけれども、その内容は、昔のような天皇主権による天皇の許可ということではもちろんなく、国民の一人ひとりが主権であるという背景からの折伏ということを言っているのであります。この辺は時代が違ってきているわけてす。それから次に、二十六年には、日亨上人が『大白蓮華』に載った『富士日興上人詳伝』のなかで、国立戒壇とお書きになっておる。また戸田氏は、このあとも講演や論文で六回ほども国立戒壇に言及しております。

また昭和三十年に初めて国立戒壇の語を池田大作が言い、三十一年四月一日には時を同じくして戸田城聖氏と池田大作が国立戒壇に言及しておるのであります。さらに三十一年の五月一日と五月三日に、戸田・池田両名がそれぞれ述べている。そして昭和三十一年八月、三十一年十一月、三十二年六月一日に、戸田城聖氏が国立戒壇の意義を述べておるけれども、先程も言いましたように、大聖人の仰せの戒壇についての見方として国立と言うけれども、名前だけなのです。既に戦後の創価学会の再建の時に、天皇陛下の建立ではないということを言っているのであり、ただ国立という名称だけがずっと使われていたのです。

また三十二年十二月十六日に池田大作がやはりこれを言っておりますが、これもおそらく戸田氏の考え方に基づいて、池田も当然、天皇のことではないという意味で言っていたわけであります。それで三十三年四月二日に戸田城聖氏が亡くなって、三十三年四月三日には池田大作が国立戒壇という上から不開門を開くのだということを言っているのです。そして三十三年五月一日、三十三年五月十八日、三十三年十二月七日と、ずっとこの国立戒壇ということを言っておるのであります。

この間、宗門の方はあまりおっしゃっておらないけれども、三十四年の一月一日に日淳上人が新年の挨拶のなかでおっしゃっております。それから三十四年一月一日に池田大作は国立戒壇を言っておるけれども、これも一人ひとりの納得の戒壇であり、国教ということではないと述べておるのです。これは戸田氏の考え方をそのまま受けておると思われます。そして三十四年六月四日、ここでは国立戒壇建立のための選挙戦に勝利した旨を称揚しています。

さらに三十五年の一月一日には日達上人がやはり国立戒壇ということをおっしゃっておる。日達上人はあまり国立戒壇ということをおっしゃっていないのだが、この三十五年一月一日の時に初めて、国立戒壇を標榜されておるのです。でも、こういうのはおもしろいもので、国立戒壇の名称は田中智学が言い出して、先程も言いましたように天皇主権のもとの内容だったのですが、戦後においてはそうではなくて、民衆の上からの国立という形で、ずっと名称だけが一人歩きしてきたということであります。

それから三十五年六月一日に女子青年部共同研究、三十六年四月六日には日達上人がまたおっしゃっておる。あとは、小泉隆とか秋谷城永とかが色々と言っておるわけですが、そういう形であります。

次に、正本堂ということが、これは解体されているけれども、やはり一つの流れとしてあるわけです。皆さん、正本堂の名称は一体どこから来ておると思いますか。これは、まず『百六箇抄』に、

「下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」
(御書一六九九㌻)

という御文がある。この御指南が、宗門においては戒壇建立に関する一つの基本をなしておると思うのです。

これは日淳上人や日達上人の御指南もありましたが、叡山とは全く違っておる意味があるのです。叡山の場合は根本中堂というのが中心にあり、あれが本堂で、戒壇堂は別なのです。根本中堂よりもずっと小さいもので、それが僧侶が受戒する所であります。南都の小乗の戒壇に対する大乗円頓の戒壇と言っても、そういう意味での特別な戒壇堂というのがあったのです。

ところが、この『百六箇抄』の御文からすれば、「三箇の秘法」だから、これは戒壇も当然、含むわけです。また、その戒壇は「富士山本門寺の本堂なり」ということだから、本堂がそのまま戒壇であるということ、要するに、これは事の戒法ということがそのまま戒壇の意義を持つことの上からも、根本の御本尊様がおわしますところの本堂がそのまま戒壇の堂であるということです。それが「富士山本門寺の本堂なり」という御指南で、これが『百六箇抄』にあるのであります。

けれども、これはまだ本堂であって「正」が付いていないのです。どこで正が付いたかというと、これが実は日淳上人なのです。「そんなことはありませんよ、もっと前にありますよ」という人がありましたら、私の間違いということで指摘してください。だけれども、色々と調べた結果、三十年の十月に日淳上人がおっしゃられたのが初めだと思うのです。

これは当時、高田聖泉という人が『興尊雪冤録』というのを出して、宗門の在り方やなんかを色々と間違って書いたのです。そのなかでは「本門戒壇の大御本尊は戒壇院の本尊だ」というように、叡山の在り方を中心に考えたのだろうが、あくまで戒壇ということからすれば戒壇院だと誤解して言っております。つまり先程言った、直ちに本堂という考え方がないから、そのように考えたと思うのですが、そういう意味で日淳上人がこの『興尊雪冤録』を破折している文章のなかに初めて「正本堂」という言葉が出てくるのです。

そこで私が思うには、根本の『百六箇抄』の「富士山本門寺の本堂なり」という御文からいくと、本堂にはそのまま正しい御本尊を安置するという上において「正」という字を付けるべきであると日淳上人がお考えになり、正本堂という名称としてお示しになったのが一番最初だと思われるのであります。

ところが、おもしろいのは、戸田城聖氏の著述はたくさん残っているが、その著述のなかで、正本堂ということは一カ所も出てこないのです。全然、どこにもないのです。だけれども、池田大作は戸田先生の遺言として正本堂を造りなさいと言われたということを言っているわけだ。これは、池田は色々とうそを、言う人ですから、うその点も多々あるかとも思うのだけれども、私の推測なのだが、その流れから言えば、やはりこのところはそう言われたという意味もあったのかなと思うのです。なにも池田だからといって必ずしも全部うそだと、私は絶対に言いません。だから、そういう面も多少あったのではないかと思うのです。

それというのも、これはどうかとも思うのだが、池田が日記を書いていて、この日記というのが「正本堂」が出てくる池田の一番最初になるのです。もちろん日記などというものは、文章を作っておいて「この日のものだ」と言えばそれでよいのだから、あとからいくらでも作れるかも知れないけれども、とにかく、昭和三十二年十月十二日の池田の日記に、

「広布の総仕上げの、第一歩たる、正本堂」(若き日の日記四―五四㌻)

というのが出てくる。これは一往、あとから出版されてはいるけれども、公的なところで言っているわけではないし、どうも私には眉唾のように思えるのだが……。また同じく昭和三十三年七月三十一日の日記にも、池田大作は、

「七年後……大客殿建立。また七年後……正本堂の建設」(同五―三五㌻)

ということを書いてあるのだが、これもどうも、あとから書いたのではないかと、直感的には感じられる。しかし、けっしてそう断定はしません。

ただ、実際に言ったのは三十四年の一月一日に池田大作が、国立戒壇建立の時には正本堂が出来て、戒壇の大御本尊様が奉安殿より正本堂へお出ましになるということを、はっきり言っている次第であります。さらに三十四年の八月九日にも、正本堂へ大御本尊様がお出ましということを言っている。このような意味で正本堂ということを言いながら、奉安殿が出来たあと、この大講堂が出来たこともあり、そのあとは大客殿と正本堂を造りなさいということを戸田氏が言ったと言っているわけです。そして三十四年の十一月十七日には、日淳上人が御遷化あそばされました。それから三十五年の四月四日に初めて、さっき述べたように、戸田城聖氏の遺言で正本堂を造れと言われたと、池田大作が言うのです。

だから昭和三十二年の池田の日記からすると、日淳上人が初めて正本堂と言い出されたのが三十年だから、かなり時間が短いと言える。しかし、日淳上人が戸田氏と色々な面で話をされていたことは当時、私達もたしかに目にしておりますから、したがって、日淳上人がこの戒壇の問題について、その時は正本堂として建立すべきというように戸田氏に言われたことも、あるいはあったのではないかと思うのです。そのようなことから、戸田氏がそのことを池田に遺言したというような経過があったとも思われます。

ところが、この正本堂に関しては、遺言で造れと言われたと言い出したのが三十五年の四月四日で、三十五年の五月三日には池田大作が第三代会長に就任しているわけです。さらに女子青年部が共同研究をしたこともあったりと、池田も正本堂ということを既に、かなり言っておりました。しかし三十七年の九月一日に、今でもまだ学会の幹部でいる森田一哉というのが、当時の宗門の庶務部長である早瀬日慈上人に、正本堂とは一体どういうことですかと聞いているのです。その時に早瀬庶務部長は「これはあくまで御法主上人猊下の御胸中におわしますことである。我々が簡単に話をすることではない」というような意味の返答をされています。これは当然のことであります。つまり、このころ学会の幹部達は正本堂の名称について、あまりはっきりしていなかったとも思われるのです。

そして三十九年五月三日、大客殿が出来る年ですが、池田大作がまた、この七年間で正本堂を建てよというのが戸田氏の遺言だと発言します。つまり、あとの七年ということは昭和四十六年になるわけで、それを目指して正本堂を造れということが戸田先生の遺言だと言っているのです。

ところが、四十年の二月十六日に第一回の正本堂建設委員会があったのですが、それまでの間、日達上人は正本堂ということを全然おっしゃっていないのです。また、この会合でも、池田が色々なことを言い、戸田氏の遺言であるということも言っているけれども、日達上人はこの点については非常に慎重を期せられたと思うのであります。そのようなことで、四十年二月十六日の正本堂建設委員会の挨拶のなかで、日達上人は、

「池田会長の意志により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います」(大日蓮・昭和四〇年三月号九㌻)

と、正本堂という言葉を初めて使われて、しかもそれを寄進すると言うから受けると言われたのです。このお言葉は、そのあとずっと長い文が続くのだけれども、今は省略します。しかし、日達上人はこの挨拶のなかで、「正本堂」という言葉を十二回ほどもおっしゃっているのです。

そして、正本堂の寄進を受けるという意味から、正本堂の色々な在り方を初めて述べられておるわけだが、今この御文を拝してみても、この時に特に正本堂が大聖人様の御遺命の戒壇であるというような、はっきりとした意義を示すお言葉があったとは、私には思えない。だが学会では、日達上人が第一回正本堂建設委員会で、正本堂が実質的な戒壇だということをおっしゃったと言っているのです。しかし、あの文を拝すると、はたしてそこまで言えるかと思うのです。

そのお言葉のなかではほかにも、例えば、まだ謗法の者が多いから蔵の形にするとか、色々な意味のことをおっしゃっているのですが、とにかく、日達上人が正本堂という名称をはっきり示されたのは、正本堂を寄進したいという池田の言葉を受ける形でおっしゃったように拝せられるのです。そして、それまでの間、自ら先に正本堂ということをおっしゃってはいない。そういう在り方があったわけであります。さらにこれ以後は、正本堂という言葉は宗門のあらゆる所で、色々な文献、色々な発言に無量無数に出てくるのであります。

さて、戸田氏は昭和三十年の三月二十五日には、当時、宗会議長だった市川真道さんへ奉安殿と大客殿の建立寄進を誓願しております。その後、戸田さんは亡くなるまで、ずっと国立戒壇と言ってはいるけれども、国主というのはあくまで民衆であり、日本中の人なのだと言っておりました。これはたしかに憲法が昭和二十二年以降そうなっておりますから、そのことを言っておるわけです。

そして三十九年四月一日に池田が初めて、『三大秘法抄』の事の戒壇の時が来たということを言っておる。さらにその次の日には「本門の時代」ということを言い出したのですが、これは記憶のある人もいるでしょう。また「化儀の広宣流布」「王仏冥合達成の総仕上げの戦い」ということも言い出しています。

同年六月三十日には、おもしろいことを言っている。これも本当かうそかは判らないのだが、本尊流布は豆腐で、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと、戸田先生が何度もおっしゃったと言うのです。これはもし、言ったとすれば、戸田氏は、昔だったら天皇が一人信仰して、その力で一国全部を信仰させればよいのだけれども、現在の主権在民の上からすれば国民全体が信仰しなければならない。そうなると、どうしても本尊流布が大事になるということから、本尊流布が豆腐なのだという意味のことを言ったのかも知れない。したがって、むしろ内容的には、本尊を流布してみんなが幸せになるのが豆腐であって、それに対して戒壇建立はその結果であるから、戒壇建立はおからであり、カスのようなものだと言ったのかも知れません。

戸田さんは色々な面で意表をついたことを言う人だから、例えば「我々は車引きだ」と言ったこともある。我々は折伏した人を引いて御本尊様のもとに御案内するのだというようなことを言ったかと思うと、今度は「御本尊様は幸福製造機だ」と言ったこともありました。みんなも覚えがあるでしょう。とにかく色々なことを言う人でした。けれども信心は、池田とはもう一つ違った深さがあったと、私は確信しています。

さて、豆腐とおからの話を受けて、池田は、戒壇建立はほんの形式で、石碑のようなものだと言って、さらに、

「したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえない」
(聖教新聞・昭和三九年七月二日付)

と、そこまで戒壇建立をさげすんで言っているのです。そうかと思うと、その次からは戒壇建立に執われて、「本門戒壇建立成就は三千年仏教史の最重要の時」等と言い、大聖人様の御遺命が達成される意味を諸所に言い出し、そこにたいへん執われていたのです。

そこで昭和四十年一月一日に日達上人がおっしゃっておりますが、池田がしょっちゅう利用して使っていた言葉がある。それは日達上人が池田に「もう広宣流布だな」ということをおっしゃったというのです。これはおそらく、おっしゃったでしょう。けれども私は、日達上人がそのようにおっしゃったのは、いわゆる大聖人様の御遺命が全部、達成するという意味ではなく、大略的な意味からだと思うのです。それはたしかに、あのころは折伏が進み、信徒の増加が著しかった形の上からの在り方、そして折伏の指揮を執っておる池田会長に対する苦労を労う意味、また今後の激励の意味も含めて、そのようなことをおっしゃったと思うのです。それを池田は「日達上人がこうおっしゃったんですから…」と、その言葉をとっこに取って、それをさらに強い意味において色々な面で利用したのであります。

例えば、先程言った第一回正本堂建設委員会の日達上人のお言葉ですが、これを、

「日達上人猊下から、正本堂の建立は実質的な戒壇建立と同じ意義をもつ旨の重大なお話があった」(同・昭和四〇年二月二〇日付)

というように、聖教新聞で発表しているのです。それから、正本堂建設委員会で作った「御供養趣意書」においても、

「かねてより、正本堂建立は、実質的な戒壇建立であり、広宣流布の達成であるとうけたまわっていたことが、ここに明らかになった」
(大日蓮・昭和四〇年五月号一四㌻)

と書いて、聖教新聞に載せてある。この「実質的な戒壇建立」もそうであるが、「広宣流布の達成」というところからも、これらの言は、日達上人の第一回正本堂建設委員会のお言葉には発見できず、既に広布達成という考え方が先走った在り方として出てきておるのであります。

そこで四十年の四月六日には、宗門でも大石菊寿さんが、

「正本堂は、実質において、まさに本門戒旦堂の建立となった」
(同・昭和四〇年九月号一八㌻)

と述べている。ここにそのお弟子方もいるだろうが、この方は福岡の霑妙寺の住職を長い間されていた方で、百日説法をするというぐらい、お説法が実に熱心な方でありました。病気になってからも必ず説法したということも聞いているように、とにかくお説法を一生懸命なさる方だったのです。それで私が登座してから大石菊寿さんを能化に昇進させたのですが、その時に常に説法していた方であったから「常説院」と院号を付けたのです。そうしたら、私は日号を知らなかったのですが、大石さんの日号が「日法」だったのです。院号と日号の意味がぴたりと一致し、うまくできているものだと思いましたが、それはともかく、大石師の例からしても、宗門の全体が学会のそのような考えの在り方に、ずっと引きずられていったような意味があるのです。

これに対して、浅井はこの当時、四十年五月二十五日には、千載一遇の時だから全講を挙げて御供養するということを言っております。

現在、浅井があのように言っているけれども、矛盾点があるのです。一つは昭和六十一年八月に、

「昭和四十年の御供養趣意書の当時は、まだ誑惑が顕著でなく、少なくとも管長猊下は一言も正本堂を御遺命の事の戒壇などとは言わず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調された故に御供養に参加したのだ(取意)」
(富士・昭和六一年八月号五三㌻)

と言っているのです。また事実、先程も言ったように、第一回正本堂建設委員会における日達上人のお言葉をずっと拝見してみると、広宣流布の上に信徒が非常に増えたことからこのような堂を造るという意味の御指南ではもちろんあるけれども、それが直ちに御遺命の戒壇というようにおっしゃっているとは、私にはどうも感じられないのです。ところが、昭和五十二年八月には逆に、

「昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において日達上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされた」(同・昭和五二年八月号六㌻)

ということで、攻撃しているのであります。そうすると、同じお言葉に対して、片方ではこのようなことは言っていないと言っていて、もう片方では、そのようなことを言っていると攻撃しているのだから、浅井が口からでまかせを言っていると言えるぐらい、全く反対のことを言っているのです。

それはともかく、日達上人もこれからあとの御発言のなかでは、創価学会が広宣流布に向かって進んでいく姿、また正本堂を御供養するという姿を御覧あそばされて、その意義の上から、大聖人の御遺命の戒壇建設の方向に向かって進んでおるというような意味での色々なお言葉が拝せられるわけであります。それを浅井は取り上げて、最後は日達上人もが御遺命違背の法主だということを言って、ついでに私のことも徹底的に悪口を言っているのです。

最近、浅井が出した本でも、日達上人の悪口をさんざん言ったあと、また私の悪口を言っているのですが、この当時、浅井の問題に関連した形で宗門と学会とが、日達上人の御指南を承りつつ、どうしてもやらざるをえなかったのが正本堂の意義付けということでありました。私は当時、教学部長をしていたものだから結局、このことについて私が書くことになってしまい、昭和四十七年に『国立戒壇論の誤りについて』という本を出版したのです。また、そのあとさらに、これは少しあとになるが、五十一年に『本門事の戒壇の本義』というものを、内容的にはやや共通しているものがありますが、出版しました。しかし、これらは全部、正本堂に関連していることであり、その理由があって書いたのです。つまり正本堂の意義付けを含め、田中智学とうり二つの浅井の考え方を破り、また本来の在り方をも示しつつ、さらに創価学会の考え方の行き過ぎをもやや訂正をするというように、色々と複雑な内容で書いたわけであります。

このなかで、四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』を読んだ人は手を挙げてみなさい。一往、四分の一ぐらいの人が読んでいるようだね。では次に、五十一年に出版した『本門事の戒壇の本義』を読んだ人は手を挙げてください。これは、なお少ないようです。なぜ、このようなことを私が言っているのかというと、現在、私が一往こうして当職を汚させていただいておることもあるので、教学部長時代とはいえ、書いた二書のなかにはどうしても当時、創価学会が正本堂の意義付けに狂奔し、その関係者からの強力な要請もあって、本来の趣旨からすれば行き過ぎが何点かあったようにも、今となっては思うのです。これらはあとで触れますが、これらに関しては日達上人も池田創価学会の強引な姿勢と、その一方での広布前進の相より慰撫と激励にたいへん苦心をされた結果、縦容のお言葉も拝せられるのです。

そのころ池田は、正本堂が御遺命の戒壇で、御遺命の達成であると、そのものずばり言っておりました。学会のほうでは正本堂が『三大秘法抄』の戒壇そのものであると言っていたのです。それに対して、浅井から色々と横槍がたくさん出てきたのですが、この時、浅井は一往、捨て身の考え方で抗議したということは、言えると思います。しかし、その色々な面において、国立戒壇ということを言い出しているわけで、その浅井の国立戒壇の主張は何かと言えば、先程言った田中智学の内容なのです。

たしかに明治欽定憲法の時代だったならば、そういう可能性もあっただろうけれども、今の憲法下では絶対にありえないことです。まして天皇の国事というのは憲法の上に決まっていて、その天皇がなさることには、様々な書類に押印するなど、その上からのもちろん権力もあるだろうけれども、こと宗教に関する限りにおいては全然、決定の権限がない。政教分離がきちんと決まっているのだから、そういうことは、今の憲法下においては絶対に無理なのです。

なおかつ、浅井が言っていることは『本化妙宗式目』にある内容、つまり勅命の国立戒壇であります。それは結局、どうしてできるかと浅井に言わせれば、憲法を改正すればよいのだと言うのですが、現実問題として今日の日本乃至世界の実情を見るに、簡単に憲法を改正することはできない。それはむしろ時代に逆行という批難から、正しい布教の妨げになるとも考えられます。しかし彼は、あくまでそういうことを言っておるのであります。
(つづく)
(文責・編集室)

(大日蓮 平成16年11月号 22~56ページ)

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