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御遺命の戒壇建立の意義

顕正会破折の論法として、大聖人様の御遺命は広宣流布なのであって戒壇の建立では無いと主張される方もいます。

確かに一天四海本因妙広宣流布というのは御遺命でしょう。しかしながら大聖人様はその広宣流布をした暁には一閻浮提総与の大御本尊様を御安置する戒壇を建立せよとも命令されているわけですね。このことを無視してはいけないと私は思います。ですから広宣流布を表にするのは良いにしても、その後の戒壇建立をも否定してしまうのは間違いだと思いますがいかがなものでしょう。

ただ、今回はそのレベルのお話をするのではなく、そこから一歩踏み込んだ、「なぜ御遺命の戒壇は建立しなければならないのか?」ということについて私の考えを少し書かせて頂きたいと思います。

前もってお断りしておきますが、前回の記事にも書いたように、これらは私の私見ですので御宗門や御住職様には一切の責任は無く、すべては私一個人に帰結しますのでご了承ください。

神風を吹かす極意

いきなり結論を言ってしまいますが、広宣流布に飽き足らずその後に戒壇堂を建立させる意義とはズバリ…、

御本尊様の御加護と諸天善神の御守護を呼び起こす極意を衆生に体得させるためにある。」

と、私は思うのです。

つまり、これらは偶然に起こるのではなく、ある一定の条件が満たされれば必然的に起きるものである…。それが何なのか、どうすれば良いのか、それらを戒壇建立という一大事業を進める途上の様々な困難を乗り越えていく中に自然と体得していける…。

そのようなお考えのもとに大聖人様は戒壇建立を御遺命として遺されたのではないかと拝察するものです。

広宣流布だけで良いなら戒壇建立は必要ないでしょ?

そもそも仏国土にする条件が広宣流布だけだったならば、一閻浮提総与の御本尊様の戒壇は御在世に建てておけば良いわけです。

何も後世の人々に宿題なんか残さんでもよろしい。

「本門戒壇の大御本尊」なんて名前も必要ないわけです。

ではなんで広宣流布だけではいけないのか?それだけでは何が足りないのか?

それは…、

名目上だけではなく、実態を伴った信仰心の顕現が必要なんだという事なのではないでしょうか。

次回はその点について書いてみたいと思います。

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