不遜なる「対決申し入れ書」を破折す(自語相違)

浅井昭衞の誑惑の言を暴く

まず、はじめに、貴殿が昭和四十年には、

すでに広宣流布の時はきております。

(富士 昭和四〇年八月号)

と、当時が、すでに広宣流布の時である、との認識を示していることを挙げておこう。貴殿は、口癖のように、日達上人・日顕上人に対し、

広宣流布以前に立てた正本堂を〝御遺命の戒壇〟というためには、広宣流布の定義を変えなくてはならぬ。そこでさまざまなたばかりが行われた。

(正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む 一二二頁)

等との邪難をするが、貴殿にこのような発言があることを、顕正会員は知らないに違いない。

つぎに、貴殿が正本堂の意義に賛同し、正本堂御供養にも参加していたという証拠を示そう。

すなわち、昭和四十年五月二十五日の総幹部会において、貴殿は、

今回、総本山において御法主上人猊下の御思召により【まして、いよいよ意義重大なる】正本堂が建立される事になりました。【戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされるのであります。この宗門全体の重大な慶事に、】妙信講も宗門の一翼として、講中の全力を挙げ、真心を込めて猊下に御供養をさせて頂く事になりました。実に日蓮正宗の生命は大聖人出世の御本懐であらせられる戒旦の大御本尊にてましますのであります。この大御本尊は大聖人様より日興上人へ御付属せられて以来、広布の時を待ち、歴代の御法主上人によって厳護せられて来たのであります。今までの七百年はひたすら時を待たれて御宝蔵の奥深く秘せられてまいりました。唯そのスキマもる光を拝して、一部の宿縁深厚なる信者が許されて猊下より内拝を賜っていたのであります。その御本尊様がいよいよ時を得て徐々に大衆の中に御出ましになる、御宝蔵より奉安殿へ、更に猊下の深い御思召により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります。【その深い意義は凡下の我々のみだりに窺がう所に非ずとはいえ、容易ならぬ事であります。いよいよ大衆の中に人類の中にその御姿を徐々におあらわしになる。私共はこの猊下の御思召に同心し奉ってたとえ微力たりとも赤誠を奉りたい。先生は千載一遇のお山への御奉公だと申されております。全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか。】

(富士 昭和四〇年七月号)

と、御供養を奨励する言葉を述べている。この発言は、『顕正会「試練と忍従」の歴史』(富士 昭和六一年八月号)にも掲載されているが、そこでは【 】内の文言は削除されている。これは貴殿が自らの発言を糊塗するものであり、重大な欺瞞である。

さらに、こんな記録もある。

浅井先生は、(中略)昭和四十年十月、今から四年前に行なわれた正本堂御供養に対し、今回その志をめでられて猊下より袱紗を賜ったことを発表した。

(富士 昭和四四年九月号)

当時、貴殿は正本堂御供養に対して日達上人から袱紗を賜ったことを、嬉しそうに発表しているではないか。このときに喜んで正本堂御供養に参加したことは、のちに慢心を起こして方向転換した貴殿にとっては、よほど都合が悪いらしく、『顕正会「試練と忍従」の歴史』では、

正本堂の御供養には妙信講も参加した。今日から見れば、なぜこれに参加したのか不思議に思う人もいようが、当時はまだ誑惑が顕著ではなかった。少なくとも、管長猊下は一言も正本堂を御遺命の「事の戒壇」などとは云われず、もっぱら戒壇の大御本尊を安置し奉る建物であることだけを強調し、「供養の誠を捧げよ」と、宗門の全僧侶・信徒に呼びかけておられたのである。

(富士 昭和六一年八月号)

と言い訳するのである。

しかし、悪いことはできないものである。昭和五十二年には、貴殿が、

時は昭和四十年二月十六日、正本堂建設委員会において同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされたのである。

(富士 昭和五二年八月号)

と述べていたことが、明々白々と残っているからである。

このように、貴殿は、昭和四十年当時の状況につき、一方では、管長猊下は一言も正本堂を御遺命の「事の戒壇」などとは云われずと述べたかと思うと、他方では、同上人は、正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の説法をされたと、全く正反対のことを述べているではないか。こんな矛盾した貴殿のいうことを、まともに聞くのは顕正会と名乗る貴殿の悩乱した眷属だけである。このことについて日顕上人は、平成十六年の全国教師講習会において貴殿の発言の矛盾を指摘されているが、これに対して貴殿は、口を鼻の如くにして、黙したままではないか。

まだ、ある。

この御供養は、宗門の歴史をつらぬく大事で、猊下を通して戒旦の大御本尊様への御奉公であり、私達の生涯に二度とはない大福運であります。

(富士 昭和四〇年七月号)

この記述は、すごい。「宗門の歴史をつらぬく大事」で「私達の生涯に二度とはない大福運」と、さきの貴殿の、昭和四十年の「すでに広宣流布の時はきております」との言をあわせて考えれば、なんのことはない。要するに、貴殿こそ、当初は、正本堂を広宣流布進展の上における重大なる意義を有する堂宇であるとの認識を表明していたではないか。この正本堂に対する認識が、創価学会の「言論出版妨害事件」を契機として、一転して正本堂否定となり、さらに国立戒壇への固執が顕在化していくのである。

要するに、貴殿の主張は、矛盾した不条理極まりないものであって、愚癡・悩乱の沙汰と断ずるものである。

(顕正会会長 浅井昭衞の“最後に申すべき事”を砕破す 223~225ページ)

解説

ちょいと的外れ

まずはじめに冒頭のピンク部分なのであるが…、

これは言ってみれば昭衞さん特有の口癖であり「広宣流布は達成された」というニュアンスではないのですね…。「広宣流布は眼前である。」との意をもって発した言葉であるかと思われます。それはOB、OGも含め顕正会に籍を置いたことのある者であれば無意識のうちにそのように受け止めるのですが、顕正会などには縁のなかった御僧侶方にはたぶん理解できない言い回しかと思います。

ゆえにあさっての方向に銃をぶっ放してしまった感が否めないのですが、これはこれで仕方が無いかとも思います。

だいたいが顕正会なぞ鼻くそにも思っていなかった(ゆえに何も対顕正会の準備などもしていなかった…だろうと思われる)当時の御宗門にいきなり「一週間で返答せよ!」と昭衛さんから手紙が来ちゃったわけですから、そりゃあ慌てますよ。

それでも既に手元にある資料と身に付けているスキルのみで意地で1週間で書き上げたわけですから、やっぱり御宗門の御僧侶方はすごいですよね。

ですから、昭衞さんの口癖や思考回路にまでは考慮されていないのがこの一発目の返書なんですよね…。(偉そうなこと言ってすみません…。)

けどですね、これをもって御宗門をなめてかかると痛い目をみますよ。

既にこの往復文書が交わされてから12年以上が経ちました。その間に大量の顕正会員が日蓮正宗へと流れ込み、お山は当然のことながら末寺さんにおいても顕正会出身者を多く擁するお寺の御住職様は、顕正会員の思考回路から教学の程度まで熟知しております。

顕正新聞で活動報告と称して末寺の御僧侶は腑抜けだとあざ笑っていますが、それはごくごく少数であり、それ以上にケチョンケチョンに論破され意気消沈して家路につく会員さんたちはその何倍もいることに早く気付いた方が良いと思います。

換言すれば「広宣流布」

次に昭衞さんの発言ですが、削除されたという

戒旦の大御本尊様が奉安殿よりお出まし遊ばされる」

この大御本尊は大聖人様より日興上人へ御付属せられて以来、広布の時を待ち、歴代の御法主上人によって厳護せられて来たのであります。今までの七百年はひたすら時を待たれて御宝蔵の奥深く秘せられてまいりました。唯そのスキマもる光を拝して、一部の宿縁深厚なる信者が許されて猊下より内拝を賜っていたのであります。その御本尊様がいよいよ時を得て徐々に大衆の中に御出ましになる

その深い意義は凡下の我々のみだりに窺がう所に非ずとはいえ、容易ならぬ事であります。いよいよ大衆の中に人類の中にその御姿を徐々におあらわしになる。私共はこの猊下の御思召に同心し奉ってたとえ微力たりとも赤誠を奉りたい。先生は千載一遇のお山への御奉公」

との表現は広宣流布達成、御遺命の戒壇建立の時の表現にあたります。

未だ広宣流布されていないのなら大御本尊様は蔵の中におしまいしてあるわけですから、それが大衆の中に姿を現すなんて表現は到底できないわけですね。それをこのような表現を用いたこと自体が、昭衞さんも昭和40年当時は「もしかすると広宣流布はするかもしれない。」という認識が多少なりともあり、それを前提に正本堂の御供養を妙信講員にも募ったということなのです。

これは逃げようにも逃げられない厳然たる事実なのです。

自語相違

今となっては昭衞さんの自語相違も珍しくは無いのですが、この正本堂御供養に伴う自語相違は一番分かりやすいものだと思います。

顕正会員さんは眼をそらさずに真正面から向き合って考えてください。

昭和40年当時、日達上人は正本堂を御遺命の戒壇と言ったのか、それとも言ってないのか?

昭衞さんの180度相違する発言をつじつまの合うように会通してみてください。

できますか?

頭が混乱してきた人は以下までメールください。

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